2024年03月04日

「朝鮮植民地戦争の経験」という視点で日本の近現代史を問い直す

3・1独立運動の日、調布で愼蒼宇・法政大学教授の講演会
「関東大震災・朝鮮独立運動への弾圧が導いた虐殺」

3月1日(金)、調布で歴史サークル芝蘭の公開講座が行われました。愼蒼宇(シンチャンウ)法政大学教授による「明治維新を問い直す 関東大震災・朝鮮独立運動への弾圧が導いた虐殺」と題する講演です。朝鮮独立運動への弾圧=朝鮮植民地戦争を克明に解き明かし、その延長上に関東大震災における朝鮮人虐殺があったということを、理路整然と、豊富な実証に基づいて明らかにしました。
当日、京王線調布駅の電気設備故障で、京王線全線が11時から14時までストップするという椿事に見舞われ、開催そのものが危ぶまれるピンチになりました。愼教授は工夫をこらして時間前に会場に到着。聴衆も1時半の開会時には5〜60人だったが、時間がたつにつれて増え、最終的には定員100人の会場がほぼ埋まる盛況となりました。
講演はパワーポイントを駆使した86枚のスライド、A4で16ページのレジュメを用いた本格的なものでした。しかし、難解な学術講演ではありません。終了後に参加者のみなさんから寄せられた感想は、論旨が明快で分かりやすい、歴史の見かたが変わる重要な問題提起だ、というような好意的なものばかりでした。

愼教授は、昨年が関東大震災・朝鮮人虐殺100年ということで、わたしにも多くの講演や原稿の依頼があった、と話し始めました。それはいいことだが、この問題は何十周年だから盛り上がるといった性質のものではない。日本の国家と社会のありかた、日常的なありかたの根本を問う問題だ。だから101年目の今年からがむしろ大切だと思っている。
今日、調布に向かっているときに電車が止まってしまった。時間までに着けるか焦った。しかし思い出したのは、朝鮮の民族独立運動では、日本が植民地支配のために敷設した鉄道への攻撃が重要なたたかいだったということだ。電車故障で困りながら、3・1独立運動の日に呼ばれた講演で電車が止まるというのは、「大事なことを忘れるなよ」という先人たちからの声かもしれないと感じた。

いまの日本は、明治維新以来100年にわたってとってきた朝鮮やアジアに対する態度の延長にある。とくに安倍政権が、政権として公然と歴史修正主義の立場を表明してからがひどい。書店には、まじめな研究書と並んで、嫌韓本や、工藤美代子の「朝鮮人虐殺は正当防衛だ」といった本も置かれている。小池都知事は横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼の辞送付を拒否し続けている。「亡くなった人すべてに哀悼の意を表明しているから」というが、天災の犠牲者と人災(虐殺行為)の犠牲者を同列に置くことは許されない。
じつはわたしの祖父の兄・愼昌範は、荒川土手で虐殺にさらされた当事者で、生々しい体験記を残している。荒川に飛び込んで九死に一生を得た彼のところに10月下旬ごろ朝鮮総督府の役人がやってきて「この度の事は天災と思ってあきらめるように」とくどくど言われたと書き残している。小池知事の言っていることはそれと同じ。100年前から同じことをやっている。

10万人以上が犠牲となった関東大震災のなかで、6000人以上の在日朝鮮人が軍・警察・自警団に殺された。これは、公的な記録にも残されており、各地方・地域の歴史研究で実証されている。中国人犠牲者や日本人犠牲者もいたが、それは「朝鮮人と間違えられて」殺されたものがほとんどだった。朝鮮人なら、老若男女を問わず、見境いなく殺した。流言飛語に踊らされた民衆の暴走といったとらえかたもある。しかし考えてほしい。流言飛語を信じたとしても、そこから実際に自分の手で殺人をおこなうということの間には、大きなカベがあるはずだ。ところが関東大震災・朝鮮人虐殺ではそのカベがなかった。

関東大震災における朝鮮人虐殺は、朝鮮植民地戦争の延長としてひきおこされた、というのが、今日わたしがお話しする内容だ。
日本近代史の研究・叙述には大きな「不在」(なかったことにされていること)がある。それが「朝鮮植民地戦争史」だ。植民地戦争というのは、あまり聞きなれないことばかもしれない。戦争といえば、主権国家同士の戦争(普仏戦争、英独戦争etc)を思い浮かべるのが一般的だ。しかし近代以降の戦争を研究するとき、アジア・アフリカにおける植民地戦争という視点が必要だ。イギリスはインドを植民地化したが、これに対するインド側の反乱は100年間続いた。イギリスとミャンマー、フランスとベトナムの間でも同じだ。主権国家同士の戦争が数年で決着がつくのに対し、植民地戦争は数十年にわたって続く。被植民地側が独立を達成するまで続く。

植民地戦争は「非対称な戦争」だ。軍事力の差がはなはだし過ぎる。鎌や鍬で歯向かってくる農民たちを機関銃掃射すれば、一人の兵士が数十人、数百人を殺戮できる。支配する側、殺す側の一方的な殺戮として行われる戦争、それが植民地戦争だ。
そして、支配側、植民者側はこれを「戦争」と認めたくなかった。戦争と認めれば近代法、国際法が適用される。たとえば捕虜の扱い方ひとつ間違えれば、戦争犯罪として告発される。だからどの国も、これは戦争ではない、暴徒を取り締まる警察行動だと言い張った。
植民地戦争という考え方をすれば、歴史の見かたも大きく変わってくる。たとえば日本では、戦争といえば真珠湾攻撃・マレー半島侵攻以降の5年間をさしてアジア・太平洋戦争という(1941〜45年)。それではさすがにまずいというので「満州事変」からの15年戦争というとらえかたもされている(1931〜45年)。しかし、台湾・朝鮮の日本軍による植民地征服、それに抵抗する民族運動の鎮圧という歴史をみれば、日清戦争からの「50年戦争」ということになる(1894〜1945)。丸山静雄は明治初年の台湾侵攻からの『日本の「70年戦争」』という、興味深い視点を提起している。

朝鮮植民地戦争はつぎのように展開された。
(1)江華島事件(1875・明治8)に端を発し、軍事的には甲午農民戦争(1894〜95)からそれははじまった。東学党の乱ともいわれる農民の反乱は、西学(キリスト教)に対する東学(朝鮮伝統の宗教の尊重)という思想運動であり、閔氏政権に対する革命運動でもあった。日本は頼まれてもいないのに出兵し、徹底鎮圧した。すでにこのときから日本軍は現地徴発主義で農民から食料を奪った。
(2)日露戦争下の民衆迫害(1904〜05)。日露戦争は朝鮮半島を兵站基地として戦われた戦争だった。日本の軍律を適用し、朝鮮からの収奪で戦争を遂行した。
(3)義兵戦争(1906〜1915)。朝鮮を保護国化し、韓国軍を解散させたことに朝鮮の軍人ははげしく反発、武装した義兵として抵抗した。日本はこれに手を焼き、徹底的な武断政治で2万人を殺害した。疲弊した祖国を逃れて、多くの朝鮮人が日本に移入した。
(4)3・1独立運動(1919)。1917年のロシア革命の影響も受け、200万ともいわれる民衆がデモにたちあがった。日本軍・憲兵・警察は武力で鎮圧し、7000人以上を殺害した。
(5)シベリア戦争(1918〜25)。ロシア革命に脅威を感じた英仏米日などの連合国は、シベリアに出兵して革命の伝播を阻止、ねじ伏せようとした。しかし撃退され、日本軍にとっては手痛い敗北となった。以降、共産主義に対する激しい憎悪と恐怖は、日本軍の体質となった。
(6)間島虐殺(1920)。朝鮮国内のあまりにも激しい弾圧で、抗日運動は国外、とくに満州などで行われた。中国と朝鮮の国境付近にある間島でおきた日本軍による朝鮮人3000人の虐殺は、抗日運動への恐怖が引き起こしたものだった。
こうした歴史が、1923年関東大震災・朝鮮人虐殺をひきおこした。日本が、甲午農民戦争以来繰り返してきた殲滅と「連座制」(抗日分子がいると疑った村を丸ごと焼き尽くし殺しつくす)の歴史の延長として、朝鮮人であれば老若男女を問わず殲滅していいという行動に走ったのだ。

関東大震災の起きたその日、三宅坂陸軍大臣官邸で軍事参議会議が開かれていた。陸軍大臣山梨半造、次期陸軍大臣田中義一、参謀総長河合操、教育総監大庭二郎、軍事参議官(のち戒厳司令部司令官)福田雅太郎、軍事参議官町田経宇。この全員が朝鮮・台湾・シベリア関連の経歴を有している。
「植民地の反乱と革命情勢という帝国主義の危機の前線にいた重要な連中はみんな震災時に日本に帰ってきて当局の要職に」(姜徳相)ついていた。彼らは、軍の仕事は「不逞鮮人」の殺戮であると考え、実行してきた者たちだった。9月2日に戒厳令を発した国務大臣・水野錬太郎は、3・1独立運動を武力鎮圧したときの政務総監(最高指揮官)だった。
9月3日に関東戒厳令司令部条例が勅令で公布されたが、これに基づく警備部隊自身が虐殺行為をはたらいたことは『関東戒厳司令部詳報』第3巻所収の「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査票」に記録されている。
また、朝鮮人虐殺を行なった在郷軍人会は「朝鮮駐屯軍帰り(含む台湾・シベリア駐屯)」だ。日本の陸軍は師団によって構成され、所属部隊=郷土部隊になっている。新たに調査・発掘した資料などで、虐殺に関与した在郷軍人会が所属していた師団が、この通り(詳細な表・グラフの表示)。この資料は、7月に発行予定の有志社『問い続ける民衆史』に詳しく発表することになっている。

発揮された植民地支配の論理と手法はつぎの通りだ。
手法1 「平時編成」「治安維持(治安戦)」「警察との連携」。
植民地戦争は、民族運動=「暴徒」と規定した軍事行動だ。そこでは「戦時」と「平時」が未分離だ。抗日運動への弾圧は戦時編成ではなく、憲兵・警察と連携した平時編成で行われた。これは植民地戦争が、民族運動への弾圧を「戦争」とは認めないことと一致している。
手法2  「殲滅」と「連座」の植民地戦争。
「不逞鮮人」「朝鮮暴徒」は殲滅する。これをかばう者も同罪として皆殺しにする(連座)。ガザでいま行われていることと同じです。
手法3 「やむなく発砲」「正当防衛」論による殺害の正当化
殲滅・虐殺行動に対する朝鮮人側からの抗議は歯牙にもかけず更なる弾圧でこたえるが、目撃した英米の宣教師などからの批判にはうろたえて弁解する。暴徒の狼藉に「やむなく発砲した」「正当防衛だった」などという。これは今日にいたるまで続いている日本政府の態度でもある。

わたしは日本軍の虐殺行為には、深層に深い恐怖があると見ている。村ごと焼き尽くし、殺しつくしたことへの報復がないはずがないという恐怖が、いっそう残虐な行動に走らせる。こうしたことが二度と繰り返されてはならない。歴史の事実をありのまま見つめるところから、その克服ははじまる。(了。これは講演の忠実な再現ではありません。メモに基づいて再構成したものです)

朝鮮半島は150年戦争が続いている状態にある

会場からは、福田村事件、ユダヤ人に対するホロコースト、ガザの虐殺、市町村史の書き換え、東アジアにおける軍事的な緊張などについて質問や意見が寄せられました。
東アジアの情勢に触れて、愼先生が「朝鮮半島は150年間戦争が続いてる状態に置かれている。1945年で日本の支配から解放されたように見えるが、朝鮮半島はいまも休戦状態だ。休戦状態ということは、戦争が今も続いているという意味です」と語ったのが印象的でした。
「PTSD日本兵の家族会・寄り添う市民の会」代表の黒井秋夫さんが参加され、封入した資料一式を参加者全員に配布。侵略戦争に駆り立てられた加害兵士のPTSDと、それに苦しめられた家族が今声をあげつつあることを訴えました。
調布で郷土史の研究をしておられる古橋研一さんが参加し『関東大震災 千歳村・馬橋事件と調布市域の被害』に触れて発言されました。昨年の公開講座で宇佐照代さんの講演を撮影していたドキュメンタリー映画監督・大宮浩一さんが出席され、映画『そしてアイヌ』が来年公開予定であることを発表されました。
会場では、『福田村事件』(辻野弥生、五月書房)、『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』(新井勝紘、新日本出版社)、『関東大震災』(姜徳相、新幹社)が販売され、多くの方が手にとり買いもとめておられました。

朝鮮植民地戦争という視点で近現代史を見直すという提起に、乾杯。
愼蒼宇講演「関東大震災・朝鮮独立運動への弾圧が導いた虐殺」3月1日、13:30〜16:30。調布市文化会館たづくり8F映像シアター。主催:歴史サークル芝蘭。300円。
関連:2023年09月25日、高麗博物館企画展「関東大震災100年」 https://boketen.seesaa.net/article/500872446.html
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2024年03月01日

沖本裕司の沖縄報告(184)陸自訓練場新設計画に地域ぐるみで大反対

政府防衛局はうるま市の訓練場計画を白紙撤回せよ!
昨年12月の閣議決定で陸自訓練場新設を計画

昨年12月22日の閣議で、今年(2024年)度予算案が決定された。そのうち、防衛省は沖縄県に駐留する自衛隊の施設整備費に約473億円を計上し、「南西諸島」の自衛隊増強の具体策を明らかにした。陸自関係では、勝連分屯地の地対艦ミサイル部隊配備とサイル連隊本部新設に伴う施設増強、宮古島駐屯地の電子戦部隊配備のための約1.5ヘクタール拡張、保良訓練場整備、石垣駐屯地の訓練施設拡張、沖縄市での補給拠点新設、那覇駐屯地の隊舎整備、空自関係では、久米島分屯基地の警戒管制レーダーの更新、那覇基地の自動警戒管制システムの入れ替え、などとなっている。
そして、うるま市石川のゴルフ場(東山カントリークラブ)跡地に、陸自の新たな訓練場を新設するための用地約20ヘクタールの取得費を盛り込んだ。ミサイル部隊の展開訓練、迫撃砲の取り扱い訓練などを想定。2025年度に調査設計、2026年度に工事着工予定とした。まさしく寝耳に水。地元には事前に何の連絡や相談もなく、突如として持ち上がった陸自訓練場新設に対し、地元市民のみならず広く県民の反発が巻き起こった。
左:2.1 陸自勝連分屯地ゲート前。拡張工事が進行中。右:2.15 辺野古キャンプ・シュワブゲート前。

2区説明会に280人、口々に反対意見
年が明けて1月14日、地元旭区自治会が臨時総会を開催し、参加した117人の全会一致で訓練場計画に反対する決議をあげた。さらに、港区・松島区・東山(あがりやま)区・美原区の周辺4区の評議委員会で反対決議が行なわれた。うるま市石川地区(旧石川市)の15自治会長で構成する自治会長会も反対することを決めた。大きくなる抗議の声に、防衛省は2月11日、旭区と東山区の住民のみを対象とした説明会を開き、280人が参加した。
防衛省は、「陸自の普通科連隊を一個から二個に増強するに伴ない新たな訓練場が必要」「夜間の行進・偵察、新隊員の射撃訓練、警戒・警備、部隊展開、災害対処などを予定」「実弾・空包、照明・発煙筒は使用しない。ヘリは緊急時を除いて飛行しない」と説明した。
それに対し、参加者からは、「住宅地に訓練場をつくるのは反対」「現在の環境が保てなくなる」「米軍基地に加え、自衛隊基地が広がればさらに危険な地域になってしまう」「青少年の家に近すぎる」などと、訓練場新設を危惧し反対する意見が噴出した。かつての宮森小学校ジェット機墜落事件の大惨事や由美子ちゃん事件、20歳の女性暴行殺人事件などが起こり、戦争と軍隊に反対する意識が特に強いのが石川である。石川地区選出の全市議7人は沖縄防衛局に対し、石川地区全体への説明会実施を求め、副議長を含むうるま市区選出の県議3人も玉城知事に面会し反対の意思を伝えた。
沖縄5 2.15 「基地はいらない」との自作の歌を.jpg 沖縄6 2.15 海上作業ヤード造成に投入される捨て石.jpg
左:2.15 辺野古キャンプ・シュワブゲート前。「基地はいらない」との自作の歌を歌った。右:海上作業ヤード造成に投入される捨て石

3月20日に大規模市民集会を開催
玉城知事は2月17日、県庁を訪れた木原防衛相に対し、「地元の意向を尊重してほしい」「この計画に賛成しかねる。白紙に戻して検討してほしい」とハッキリ述べた。また、会談後の記者会見では、「石川青少年の家という年間4万人が利用する教育施設のすぐそばに訓練場を造るということは、果たして全国に例があるのか。私はないと思う」と強調した。それに対し木原防衛相は、撤回を否定したうえで、「取得した土地の利用の在り方は巾を広げて検討していく」と語った。6月県議選を控えて、政府自民党としては有権者の反発を避けるために低姿勢を装っているところだろうが、用途変更ではなく白紙撤回以外にないというのが市民・県民の総意だ。
地元では、自治会評議委員や市議、市長・議員のOBなどを中心に「自衛隊訓練場設置計画の断念を求める会」を結成し、3月20日に大規模な市民集会を開催する動きが進んでいる。同時に、県議会への請願書や署名集めに取り組んでいくという。2月24日には、元石川市議会議員OB会が22人で結成され、会長には、元石川市議会議長・元自民党県連政調会長を務めた伊波常洋さんが就任した。政府の独善的な訓練場新設計画に対し、地域ぐるみの反対闘争が保革・与野党を越えた大きな固まりとなって盛り上がってきている。
日本政府の政治家・官僚たちは、沖縄を軍事の島として利用するのをやめよ!
陸自訓練場新設計画を白紙撤回し、沖縄での自衛隊増強を中止せよ! 
左:2.15 辺野古キャンプ・シュワブゲート前。警察機動隊が座り込みを排除。右:済州と沖縄をむすぶ連帯の横断幕。

辺野古、塩川、安和での連日の行動大浦湾の埋立工事は必ず止める
 
代執行による大浦湾埋め立てに着手した政府は、大浦湾の海上作業エリアを造るための捨て石投入と、辺野古側の埋め立て地への土砂備蓄を進めている。閣僚や官僚たちは10年後、20年後、大浦湾埋め立て・辺野古新基地建設がどうなるかということは関心外だ。前任者から受け継いだ国策を遂行するのにひたすら全力を挙げる。来県した木原防衛相もまた、「丁寧な説明」「工事を着実に進める」とくり返した。「説明」さえすればなんでもできると思っている政権の傲慢の極みだ。
2月初め辺野古を訪れ、資材搬入ゲートの座り込みや辺野古弾薬庫の第4ゲートを視察した池澤夏樹さんは、沖縄タイムス2024.2.21に寄稿文を寄せた。池澤さんは「海底にずぶずぶ沈む2兆円」との見出しの記事で、「他に例のない難工事、というより不可能な工事ではないか」「アメリカ軍の本音は使い勝手のいい普天間から動きたくないということ。先日さる高官がそう漏らした。だから日本政府は先の見込みのない辺野古の工事をぐずぐずと続ける」「2兆7千億円が税金から企業にざぶざぶと還流される。政権党も潤う」「これはサギだ。日本国民のみなさん、これでいいのですか?」と書いた。
大浦湾埋め立て工事の現場では、辺野古ゲート前、本部塩川港、琉球セメント安和桟橋、そして海上で、うまずたゆまず、不法な埋立工事に抗議し少しでも遅らせる行動が続けられている。辺野古ゲート前では、2月15日の座り込みで、1995年の少女暴行事件に抗議して島ぐるみ浦添の宮城さんが作詞した「悲しみの涙はもういらない」との歌が歌われた。闘い続けよう!
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2.7 本部塩川港。うまずたゆまず、ゆっくり歩きで土砂を止める。2.14 琉球セメント安和桟橋入口。ダンプの運転手に語りかける。

沖縄県地域外交基本方針案の策定へ
3月8日まで広く県民の意見公募
沖縄県は昨年4月に地域外交室を立ち上げ、玉城知事が中国・韓国・台湾・米国などを訪問するなど、平和と経済発展を目指す沖縄県独自の地域外交を進めてきた。
日本政府が米国と一体となって琉球列島に対中国・朝鮮の軍事包囲網を構築し東アジアの軍事的緊張が高まる中で、沖縄県は平和の架け橋になろうと独自の地域外交に尽力している。そして新年度に向けて、今後の基本方針を策定するため、地域外交に関する万国津梁会議(委員長=君島東彦立命館大教授)がまとめた提言に基づいて、沖縄県地域外交基本方針(仮称)をこのほど発表した。
その内容は、沖縄県HPの「地域外交室」に掲載されており、理念の考え方は「21世紀の万国津梁を実現すること」と明記されている。県民の意見を広く反映させた上で最終決定するために、県は3月8日までの日程で、意見を公募(パブリックコメント)している。意見の提出方法は、郵送、メール、FAXなど、提出用紙のフォームも添付されている。一度、県のHPをご覧いただきたい。
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左:2.15 辺野古キャンプ・シュワブゲート前。生コン、捨て石、砂利を搬入。右:2.15 昼の座り込みに約40人。

県内市町村の中国での戦争体験記を読む
日本軍による戦争の赤裸々な描写
戦争体験記を読むこの連載も100回を迎えた。この間百数十人の戦争体験の証言を紹介し、日本のアジア侵略戦争に動員された沖縄県民が何をしたのか何をさせられたのか何を見たのかということを執拗に追ってきた。歴史の過ちを認識し正す立脚点はやはりそこにあると思う。この連載もあと十数回で終了する予定だが、読者の皆さんには最後までよろしくお付き合い願いたい。
今号で紹介する北谷町の島袋さんは、1935年、2度目の召集を受けて鹿児島まで行ったものの、補充要請連絡がくるまで2年半も何もせず過ごしたという。1938年に南京あたりに派遣されたが、補給は全くなし、もっぱら略奪していたと記している。1年ほどしてマラリアにかかり本土送還、和歌山の赤十字病院に収容された。引用は原文通り、補足は〔 〕、省略は……で示した。年号を西暦で補充した。

『戦時体験記録 北谷町』(1995年)
島袋弘「支那事変と沖縄戦を体験」
昭和九(1934)年一月二十日に、私は「都城23連隊」に現役入隊し二年の満期を迎えていったん沖縄に戻った。郵便局の集配係をしていたが、昭和十(1935)年に二度目の召集令状を受けた。七月二十七日に、鹿児島歩兵第45連隊に入隊の通知だった。
あいにく出発当日の夜明け前から大きな暴風になってしまった。それで、三日間那覇で足止めをくった。その間はずっと那覇で宿泊し、船の出航に備えた。
沖縄からの入隊が遅れたので、代わりの要員が鹿児島から急きょ召集されたそうだ。私たちが着いた頃には、連隊は支那に出発した後だった。四、五人ぐらいしか残っていなかった。それで、支那の方から補充要請の連絡がくるまで、沖縄からの召集兵は待機しておくことになった。入隊した連隊は、次々に支那に送られていたので、「補充隊」とも呼ばれていた。いつ要請が来るか分からないから、外出も禁止されて、演習もせず、ただぶらぶら二年半ほどすごした。
昭和十三(1938)年六月になってから「145連隊」という新部隊が編成された。私たちもそこに配属されて支那に派遣された。船は門司から出航した。支那では南京あたりにいた。戦地の第一歩を踏んでからは、配給物は全くなかった。それで、部隊は現地で野菜や豚などを盗み、それを空き缶で調理して食べていた。
いつ頃出会ったかはっきり覚えていないが、支那事変が勃発する以前に支那に渡ったという日本人がいた。その人は、日本語も支那の言葉も上手だった。支那の敗残兵を30名から50名ほど集めて、部隊を編成して、彼等に日本の加勢をさせていた。その人の個人名を冠した部隊名だった。その部隊の支那人は、同じ支那の敗残兵を縛って連れてきて、斬り殺していた。それは目撃した。
支那では九江〔チュージャン〕の戦いに参加した。……支那が強かったのは、支那の迫撃砲が優れていたためだった。戦闘機などは日本の方が性能はよかったが、支那は迫撃砲が非常によかった。……当時、日本はおもに機関銃を武器としていたので、なかなか太刀打ちできなかった。私は、馬に引かせて移動させて撃つ連隊砲の係をしていたが、それも迫撃砲には勝てなかった。……
支那には一年ほどいた。とうとう私もマラリアにかかった。……そこの野戦病院では治療できないということで、他の患者と内地に送還された。命令は、内地で完治させた後、また部隊に復帰するようにというものだった。支那から門司に着くと、内地の人も沖縄の人も、マラリア患者は全員、和歌山の赤十字病院に収容された。……
半年ほど入院した後、鹿児島45連隊に戻るようにとの命令を受けた。完治したかどうかも分からなかったが、病院から旅費をもらって部隊に復帰した。一緒に部隊に戻った内地の人は、部隊内で再発して高熱を出して苦しんでいた。丈夫な人たちは上官に呼ばれ、「病気に気を付けて、いつ呼び出されてもよいよう待機しろ」という命令を受けた。それで、私も一か月の予定で沖縄に帰った。
昭和十五(1940)年の五月頃だったと思う。旅費は連隊から支給された。私は家で呼び出しの連絡を待っていたが、なかなか来なかったので、召集前の職場である郵便局に復職した。
昭和十九(1944)年の十・十空襲までも、連隊からの呼び出しはなかったが、二、三度現地召集の通知が来た。そのたびに局長が「郵便局の仕事は防衛隊に行くのと同じで、第一線の仕事だ」と、部隊にかけあってくれたので召集を免れていた。……
しまいには、私も召集されることになった。それは、米軍上陸の一月ほど前だったと思うので、昭和二十年三月一日のことだ。……所属は第504特設警備工兵隊だった。……部隊の主な任務は、飛行場の弾痕整理だった。昼は屋良飛行場が空襲されて穴があくので、夜になると国直(くんのーい)グスクから、土砂を馬車やモッコで運び、その穴を埋める作業をした。それが一か月ほど続いたと思う。
まもなく敵が上陸した。防衛隊は武器を持っていなかったので、「戦うことはできないから、国頭に向けて後退するように」と言われ、部隊みんな一緒に逃げた。

(沖本裕司の沖縄報告 2024.2.25記)
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2024年02月28日

梅まつりを見に行って、すてきな「子どもの冒険遊び場」に出合う

「羽根木公園(世田谷)の梅林が見ごろだよ」と友人から聞いたのが10日ほど前。すぐには行けず、26日の好天を見て「今日しかない」と出かけました。
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小田急線梅ヶ丘駅に降り立ったのは初めてです。徒歩4〜5分で羽根木公園へ。「せたがや梅まつり」の看板がお出迎えです。こんもりと盛り上がった丘に約650本の白梅・紅梅が咲いている。わたしが週に2〜3回散歩する神代植物公園の梅林は約160本ですから、4倍くらいもある規模のみごとな梅林です。
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先週の悪天候や26日当日の強風などの影響で、残念ながら満開の華やぎは終わっています。これが10日ほど前ならさぞかしみごとだったろうなあと想いを馳せながら散策しました。
公園案内のパンフレットによれば、羽根木公園の歴史は1700年ごろ(江戸時代の元禄期)にさかのぼる。当時、六郎次という鍛冶屋が住んでいたことから「六郎治山」と呼ばれていた。その後、実業家にして茶人の根津嘉一郎の所有だったことから「根津山」と呼ばれる雑木林だった。東京都が1956年に公園を開設、1967年に区議会議員選出記念として55本の梅を植樹したのが、梅林のはじまりとなったという。

梅林の奥のほうにも「梅まつり」のノボリが続いてる。導線にみちびかれてずんずん行くと、見たことのない子ども遊び場がある。てづくり感がただよう木製の遊具、炊事場、休憩所などが、なんとも好もしい。
梅ヶ丘3.jpg 梅ヶ丘4.jpg
手描きの看板が二つ掲げられている。
「こどもたちへ」という看板は「ここは はねぎプレーパーク きみたちのあそびばだよ」とはじまり「おもしろい、こわい、できるかな、やっぱしやめたい…ぜんぶ自分できめていいんだ」と語りかけ「れっつえんじょい」と締める。いい文章です。
もう一枚の看板は「おめでとうけんいちさん」とはじまる。どうやら、けんいちさんという人が、いろんな人にはたらきかけてこのプレーパークができたらしい。
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ネット検索すると、ここは日本初の子どもの冒険遊び場なのだという。大村虔一さんという方が提唱し、地域の人々が力をあわせて1979年に開設した。すばらしい。わたしが知らなっただけで、保育や児童教育にかかわっている人、関心のある人には有名な場所のようです。コロナで中断したイベントも昨年から再開しているようです。ビバ!羽根木プレーパーク。

羽根木公園の梅林とプレーパークに、乾杯。
小田急線梅ヶ丘徒歩5分「羽根木公園」世田谷梅まつり2月10日〜3月3日。
関連:あしたの日本を創る協会・ふるさとづくり賞http://www.ashita.or.jp/publish/furu/f92/23.htm

追記:神代植物公園の梅林はいまが盛りです。羽根木公園は小高い丘になっているから強風に花びらが飛ばされる。こちらはぐるりを高い木立がとり囲んでいるので風に強いということかもしれない(2月27日撮影)。
梅林1.jpg 梅林2.jpg

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