2017年11月07日

今村夏子『星の子』

両親がカルト教団信者である場合の、子どもの生き方感じ方

読んでいるあいだずっと、意識がすこし宙に浮くような小説です。
主人公の中学生「わたし」=林ちひろの一人称で物語はすすむ。中学生の感性そのままで語るこの少女に、70爺さんは感情移入できない。しかし、わけわかんないよ、と放り出すには小説がうますぎる。読みはじめたらほとんど一気読みです。すぐれた小説がもっている「なにか」が、この作品にはあります。

林ちひろの両親は、世間から白い目でみられるような、あやしげなカルト教団の信者です。
入信のきっかけは、ちひろが乳幼児のころにかかった原因不明の発疹だった。
「真夜中にかゆみで泣き叫ぶわたしのそばで、なすすべもない両親は一緒になっておいおい泣いたのだそうだ。」
この一行が、作品全体を貫いています。「一緒になっておいおい泣く」両親の図は、悲惨で滑稽で、純朴です。世智にたけた大人がいれば、「なにやってんだか」とサクサク解決策(らしきもの)を見出して次に進むわけですが、二人にさし出された救いの手は新宗教だった。
父の同僚が「それは水が悪いのです」といい、プラスチック容器に入れた満タンの水をくれた。その水をタオルに浸し、やさしくなでるというのを2ヶ月続けたら、奇跡的に発疹は消えた。それからというもの父母は「金星のめぐみ」というその水のとりこになる。
水をすすめてくれた同僚の「落合さん」夫婦を崇拝し、教団に入信して暮らしのずべてを教団に捧げる。水のおかげなのか風邪一つひかないが、少しづつ貧しくなっていく。
5歳年上の姉「まーちゃん」は、いつの頃からか両親の入信をうとましく思い、おじさん(母の弟)と結託して「金星の水」がただの水道水にすぎないことを暴こうとする事件を起こし、やがて家出する。
親類縁者は、葬儀の場でも教団の呪文を唱える夫婦を絶縁し、7回忌などの法要にも呼ばなくなった。しかし、せめてちひろだけは救い出せないかと、あの手この手で両親との引き離しを画策する。
ところが、肝心のちひろは、貧しい信者と化した両親を、周囲に対して恥ずかしいと思う感情もあるが、強く愛してもいる。
信者の子どもであることが理由で笑われたりいじめられたりもする学校を、疎ましくも思うが楽しくもある。
月に2回の信者たちの集会や、年に一度の研修では、年代・性別を超えた少年少女・青年たちがみなものすごく仲がよく、笑いがたえない。「学びの時間」や「ワークの時間」は楽しくないが、大学生の美男美女のカップルが一緒の遊びの時間は、こよなく楽しい…。

いったい、この小説はなんなのか、作者はなにがいいたいのか、という問いがどうしてもアタマから離れません。
「ふつうの暮らし」と「あやしげなカルト教団」との間に、なにか違いでもあるんですか、という問いかけだろうか。愚かな夫婦とお思いでしょうが、人間みんな愚かな存在ではないんですか、というシニカルな人間観だろうか。生きるということの意味を、限定したり判定したりするな、どのような生も肯定せよという人間讃歌だろうか。洗脳された少女の独白という、これまでの小説世界になかった手法で楽しませるという技法的な実験なのか。

問いが宙に浮いて、なんとも落ち着きません。
しかし、この作品が、小説表現の多様性に、誰も試みなかったものを一つプラスしたことは確かです。中学3年の少女が感じるままの、カルト教団のありよう、親への愛憎、親戚や学校を通してかかってくる世間の圧力。その、なまなましい手ざわりがただごとではない。
大きなハテナマークをつけたまま、とりあえず「問題作」の引き出しに入れておくことにします。

思い出される『カルト村で生まれました』の迫力

コミックエッセイ『カルト村で生まれました』(高田かや、2016年)は、ヤマギシズム共同体で生まれ育った女性が、35歳の現時点からこども時代の自分・親・共同体をふりかえったもので、どんな学者の考察、ジャーナリストのルポよりも迫力がありました。自分の信じるところにしたがって生きようとする個人も、集団も、放っておかれる権利がある。育った子供は、自分の意志でカルトから自立する権利がある。
オーム真理教のような邪悪なカルトが社会に牙をむいてきたときも、その犯した犯罪によって裁かれるだけで、内心故には裁かれてはならない。

若い頃は「宗教はアヘンだ」と信じた時もありました。人生経験を積むにつれ、他人が信じる宗教を、貶めたり干渉したりしてはならないと、肝に銘じています。
「(日本国憲法)第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
けっきょく、日本国憲法のこの条文にもどります。

今村夏子が放った「問題作」に、乾杯。
星の子 -  カルト村で生まれました。 -
今村夏子『星の子』朝日新聞出版、2017年、1400円+税。
関連:高田かや『カルト村で生まれました』文藝春秋、2016年、1000円+税。
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2017年11月05日

久住昌之『ニッポン線路つたい歩き』

脱力エッセイスト、ローカル線路沿いを散歩する

たとえばこういう文章。
「駅の周辺を歩き『ラーメンと餅・甘善』を発見。食べるところはここ一軒しかない。腹は減っている。が、ラーメンと餅、か。聞いたことのない組み合わせの店だ。店舗は新しいが、なんとなく老舗の雰囲気もある。どうなんだ、ここ。」
北海道・根室本線まででかけ、大楽毛(おおたのしけ)駅付近で昼食をとるべきか否かを迷っている。迷っているそのままをつぶやいている。つぶやきかたが、「孤独のグルメ」の井之頭五郎とそっくりなのが笑えます。
久住は、中高生の「腹減った、なんか食いてえ」という感覚をそのまま文章にして、人に読ませることができる、稀有の人です。
大きな流れで言えば、椎名誠や嵐山光三郎の「昭和軽薄体」(今や死語ですが)の延長上にある書き手ということになるのでしょうが、久住の場合、思索の片鱗も感じさせないように書くというレベルに達しています。
ものかきにつきまとう、知識を披瀝したい、深い知見の一端をほのみせたいという欲求に、厳しくふたをしている。ある種、禁欲的な作家ともいえます。

線路沿いに伝い歩けば、かならず目的地に着ける。散歩だから、地図はもたない、ガイドブックもいらない、名所旧跡をたずねない。
月刊『旅の手帖』編集部が提案するローカルな路線沿いに、数駅区間を歩いてみるという企画です。
関東近県も行きますが、氷見線(富山)、なはり線(高知)、佐世保線(佐賀・長崎)、根室本線(北海道)など、全国の鄙びた地域で、全長十数キロなんていう短い区間の路線を、わざわざ訪ねています。きっと、このままだと廃線も検討せねばなどという話しがもちあがっていそうな路線の、畑のなか、古い街並み、海沿いなどを、ひとりでトコトコ歩いている。ハラハラもない、ドキドキもない。なにかといえば温泉に入り、食堂に入ればまずはビール。ただそれだけ。
オレも行ってみたい、とか、オレもやってみたい、というような感情をよびおこさない。久住がまたヒマこいたようなことやってるよ、としか思わせない。
読書の楽しみの、超ニッチなある部分を刺激してくる、不思議な書き手です。

氷見駅そばの「小川屋食堂」

富山湾沿いに走る氷見線(高岡⇔氷見、全8駅、16.5キロ)をつたい歩いて、午後3時すぎに氷見駅に着く。かなり疲れている。なにもない駅周辺で「小川屋食堂」をみつけ、他に客がいない店で、ビールをたのみ、白エビの天ぷら、おまかせ刺身、氷見うどんを食べる。どれもが、すごくおいしい。
その至福感が、しみじみと伝わってくる。歩きたくはないし、行くこともないだろうが、もし万が一行ったら、この食堂には入ってみたい。

久住昌之の、線路つたい歩き散歩に、おつかれさまの乾杯。
ニッポン線路つたい歩き -
久住昌之「ニッポン線路つたい歩き」カンゼン、2017年、1500円+税。
関連:2013年12月04日、久住昌之『食い意地クン』http://boketen.seesaa.net/article/381864897.html
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2017年11月03日

講談社書籍ガイド『本』11月号、矢部宏治×田原総一郎対談

「全自衛隊基地の日米共同使用」が次の局面という、矢部の指摘。注目です。

出版各社は自社の出版物の宣伝・ガイドのための小冊子を作っています。メジャー雑誌とはまたひと味違うエッセイや対談などが載っていて、本好きのココロをくすぐります(新潮社「波」筑摩書房「ちくま」文藝春秋「本の話」岩波書店「図書」…)。
講談社『本』11月号に、『知ってはいけない』発刊を記念して、矢部宏治×田原総一郎の対談「これが日本の現実だ」が掲載されている。
ここで矢部がびっくりするような発言をしている。
2015年の安保関連法で集団的自衛権が認められたことで「米軍側の次の課題っていうのは憲法改正とかじゃなくて、次のフェーズ(局面、位相)に移っているということを、いま調べているんです。具体的には全自衛隊基地の(日米)共同使用なんですが。」というのだ。
おどろいた田原が「どういうこと?」と問う。
自衛隊の海外派兵が認められたのだから、その準備のために日米合同軍事訓練を行う必要がある。実際の海外派兵は、すべて米軍の要請に基づいて米軍の指揮のもとに行われる。米軍にしてみれば、なにかと「米軍基地反対」の声がうるさい米軍基地内の合同訓練ではなく、自衛隊基地内の訓練のほうがはるかに都合がいい。
静岡県の富士演習場は1968年に米軍から返還されて自衛隊基地になったが、その際に「年間二七〇日は米軍が優先的に使うという密約が結ばれていた」。その状態が全自衛隊基地に波及するようなものだと思えばよい。
なるほどなあ、と感心している場合じゃないですね。
ほんとかよ!と怒る場面です。
自衛隊基地で行われる日米合同軍事演習、費用すべて日本持ち。「朝鮮有事」を煽る安倍政権の、次の一手はそこになるわけだ。注目です。

正直な田原に感心する。

対談の冒頭で、田原が「…日米合同委員会っていうのがあるんですね。これ、僕は矢部さんの本で初めて知ったんだけど。」と発言しています。
そうなのか。日本の政治のことなら何だって分かってるという顔をしている田原が、「日米合同委員会」を矢部の本で初めて知ったのか。このくだりを読んで、矢部の一冊目の本『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』のあと行われた鳩山由紀夫×矢部の対談で、鳩山が「先にこの本を読んでいれば、私も総理を辞めずに済んだかもしれない」と語っていたのを思い出しました。
総理大臣までやった政治家が知らない。政治評論家としてブイブイいわせている田原が知らない。まして私たちのような素人が、知るはずもない。
その「日米合同委員会」(在日米軍と日本の高級官僚の会議)が、1952年から今日まで65年間、月2回1600回の会合を開いて「日本の国会より上位」の機能を果たしている。
矢部はこの状態を「『アメリカへの従属』というよりも、それは『米運への従属』であり、しかもその本質は精神的なものではなく、法的にガッチリと押さえこまれているもの」(『知ってはいけない』P94 )だと、解明してきました。
矢部が指摘するまで、ジャーナリストの代名詞のような田原が知らなかった。田原総一郎、好き嫌いは別として、知らないことを知らないと言いきる潔さは、たいしたものです。

矢部の「次の局面は全自衛隊基地の日米共同使用」という指摘に、注目。
講談社「本」.jpg
講談社書籍ガイド『本』11月号、90円。
関連:2017年10月22日、矢部宏治『知ってはいけない』http://boketen.seesaa.net/article/454357136.html
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