2017年11月11日

菊の花と巨大ダリアー植物公園秋深し

秋のバラフェスタが終わった神代植物公園は、すっかり秋景色です。
この時期に毎年行われるのが「菊花大会」(今年は第57回)です。
神代菊車が迫力、記念写真を撮る人たちでにぎわいます。
菊20171109_130312_.jpg 菊20171109_131254_.jpg
わたしが好きなのは「古典菊」のコーナーです。
武士が好んだという肥後菊@、江戸っ子が好んだという丁子菊A、京都が発祥の嵯峨菊B、三重で改良された伊勢菊Cなど、いわれてみればいかにもそんな感じがするから面白い。これらの古典菊はすべて神代植物公園で栽培されているそうですから、たいしたものです。
菊20171109_125505_.jpg@菊20171109_125531_.jpgA菊20171109_125651_.jpgB菊20171109_125711_.jpgC
ダルマ作り、福助作り、懸崖(けんがい)仕立て等の鉢物にも、ごくろうさん、よくもこんなに凝ったものをつくるものだねと感嘆します。
ダリア園では、真っ赤な巨大ダリアがひときわ目をひきます。日本で改良された「宙(そら)」という品種で、高さは優に2mを超え、花の大きさは30センチ近いのではないかと思います。ダリアもキク科の由。秋はやはり菊の世界か。
ダリア20171109_134006_.jpg ダリア「宙」.jpg 
秋深い神代植物公園の、キク科の花々に、乾杯。
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2017年11月09日

ロシア革命100年にあたって、呆け老人が思うこと

「ロシア革命全否定」の風潮にひとこと。短慮がすぎるぞ。
「世界を揺るがした100年間〜世界史からみたロシア革命」に参加して。

11月7日は、100年前にロシア革命が勝利した日です。
ところが、革命の当事国ロシアでさえ、もはや11月7日は国民の祝日ではなくなっている。まして世界の論調は、右も左も、保守もリベラルも「ロシア革命全否定」一色という景色です。最近の流行りは、あれは革命ではなく過激派によるクーデターにすぎないというもののようです。
たとえば『僕らの社会主義』(國分功一郎・山崎亮)では、ロシア革命はただひとこと「失敗した全体主義」と総括されています。呆け天が、信頼できる若い学者と思っている國分にしてそうなのですから、トホホです。1974年生まれの國分にしてみれば、なにをどうひっくり返したってソ連は官僚専制国家にすぎない。「労働者の国」どころか、最悪の一党独裁・秘密警察国家、基本的人権や内心の自由といった民主主義的な価値が、根底から否定されている悪夢のような社会体制ということでしょう。
「失敗した全体主義」という言いかたには、「ファシズムと50歩100歩」という響きもあります。
そういわれるのが当然というべき現実が、スターリン主義全盛期のソ連にはあった。スターリン批判以降も根本は変わらなかった。ゴルバチョフのペレストロイカは失敗し、ソ連は崩壊した。
なにもかもスターリンが悪かったと片づけて済ませられるのか、レーニンがやったことのなかに後の一党独裁・官僚独裁の萌芽があるじゃないかという指摘も当然です。「現代思想」10月号のロシア革命100年特集で、ロシア文学者亀山郁夫が「これほどの血が流されるのであれば必要のない革命だったか」と言いたくなる気持ちも分かります。

しかし、「産湯と一緒に赤子を流すな」という古いことわざがあります。
ロシア帝政国家を打倒したあの革命は、「帝国主義戦争を内乱へ」という鮮烈なスローガンで帝国主義国の支配者を震え上がらせ、第1次世界大戦を終わらせたのではなかったか?
帝国主義戦争の当事国にとって常識だった「植民地争奪戦」に対して、民族自決権を掲げたロシア革命の衝撃は、その後の世界史を変えたのではないか?
労働者が政治の主役になりうることを実証し、好き勝手やってるとツアーのようにくくられるという恐怖が、金持ちたちの労働者・農民への大幅な譲歩をもたらしたのではなかったか?
男女同権。民族差別・人種差別・身分差別の撤廃。弱者、少数者の権利…。いま、民主主義国家であたりまえのこととされる諸権利は、ロシア革命勃発の時期には、まだまったく存在していなかった。
官僚専制の80年への嫌悪のあまり、ロシア革命が雷鳴のように告げたこれらの衝撃を、一緒に捨て去るのは間違いです。短慮というものです。

そこで、11月4日(土)に「トロツキー研究所」が主体となって開いた「世界を揺るがした100年間〜世界史からみたロシア革命」に参加してきました。
いうまでもなく「ロシア革命全肯定」の集会です。といっても、スターリン主義のソ連を肯定したり賛美したりすることとはまったく無縁です。成就しなかった永続革命、未完の永続革命としてロシア革命を考える人たちの集会です。
講師と演題、主な内容は以下の通り。
森田成也(大学非常勤講師)「世界革命としてのロシア革命―ヨーロッパ、ロシア、アジア
ロシア革命は、衰退・終焉したフランス革命の継承であり、労働者階級による民主主義の完遂=社会主義の実現に向かう永続革命だった。フランス革命が近代社会の基礎をつくり出した(国民主権、人権、民主主義etc)ように、ロシア革命は、社会的平等(労働者・農民の権利、女性・少数民族・同性愛者の権利、植民地解放と民族自決権)を重視する現代社会の基礎をつくり出した。ブルジョアジーは、ソ連崩壊を受けて、100年の譲歩の回収に向かって野蛮化している。
中村勝己(大学非常勤講師)「ヨーロッパから見たロシア革命
日本ではカウツキーのロシア革命批判が翻訳・検討さえされてこなかった(日本左翼の大きな歪み)。ローザ・ルクセンブルグも、ロシア革命への評価はカウツキーと異なっているが、民主主義が損なわれる危険について指摘している。グラムシの「機動戦と陣地戦」の提起は、国家権力さえとってしまえば解決という革命観では、ヨーロッパでは通用しないことを提起している。目指すべき社会とはどのような社会なのかという議論が、いま求められている。
江田憲治(京都大学教授、中国現代政治思想史)「ロシア革命論の継承――中国・陳独秀の場合
中国共産党の創立者・陳独秀は、スターリン主義者に「漢奸」と貶められ、苦難の生涯を送ったが、その民主主義論・永続革命論はいまも光芒を放っている。

講師の問題提起、質疑応答などすべてを終えたのが18:00。4時間半の長丁場です。
眠くもならず、最後まで楽しく参加しました。この集会があって良かった。
フランス革命(1789年)は、革命後の恐怖政治や反動などの血塗られた歴史を経たが、200年後のいまその歴史的評価は定まっている。
ロシア革命も、革命後の内戦、粛清、官僚独裁、ソ連崩壊の血塗られた歴史を経ることになった。100年後のいまは「全否定」の評価にもさらされている。しかしさらに100年後に、その評価はまた違ったものになっているだろう。歴史を、あわてて論じる必要はない。
わずか100人ばかりの集会でしたが、「ロシア革命全否定」の風潮に抗し、その世界史的意義を見極めようとする人たちがいました。

亡き友をしのんで。

8月に秋田で亡くなった友人は、ロシア革命100年の催しを楽しみにしていました。集会のあと、一緒に出席した友人と居酒屋で飲みました。亡き友の「えがたな!」という声が聞こえたような気がします。
ロシア革命の世界史的な意義を見失わず、グローバル資本主義に対抗する政治をどうつくっていくのか。その萌芽は、世界のいたるところに顔をだしています。ウオール街占拠、アラブの春、SEALDsのたたかい、香港の雨傘、台湾のひまわり…。挫折や逡巡をくり返しながら、ひとびとの抵抗はつづく。残り少ない人生を、抵抗の側に身をおいてすごします。

ロシア革命100年、その世界史的意義に、乾杯。
ロシア革命100年.jpg 11.4ロシア革命シンポ.jpg ロシア革命100年2.jpgロシア革命4.jpg
(写真右は、11月4日朝日新聞「ロシア革命100年」特集)
関連:2017年09月19日、亡き友を偲んで、秋田に集うhttp://boketen.seesaa.net/article/453570398.html
2017年08月08日、國分功一郎/山崎亮『僕らの社会主義』http://boketen.seesaa.net/article/452516784.html
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2017年11月07日

今村夏子『星の子』

両親がカルト教団信者である場合の、子どもの生き方感じ方

読んでいるあいだずっと、意識がすこし宙に浮くような小説です。
主人公の中学生「わたし」=林ちひろの一人称で物語はすすむ。中学生の感性そのままで語るこの少女に、70爺さんは感情移入できない。しかし、わけわかんないよ、と放り出すには小説がうますぎる。読みはじめたらほとんど一気読みです。すぐれた小説がもっている「なにか」が、この作品にはあります。

林ちひろの両親は、世間から白い目でみられるような、あやしげなカルト教団の信者です。
入信のきっかけは、ちひろが乳幼児のころにかかった原因不明の発疹だった。
「真夜中にかゆみで泣き叫ぶわたしのそばで、なすすべもない両親は一緒になっておいおい泣いたのだそうだ。」
この一行が、作品全体を貫いています。「一緒になっておいおい泣く」両親の図は、悲惨で滑稽で、純朴です。世智にたけた大人がいれば、「なにやってんだか」とサクサク解決策(らしきもの)を見出して次に進むわけですが、二人にさし出された救いの手は新宗教だった。
父の同僚が「それは水が悪いのです」といい、プラスチック容器に入れた満タンの水をくれた。その水をタオルに浸し、やさしくなでるというのを2ヶ月続けたら、奇跡的に発疹は消えた。それからというもの父母は「金星のめぐみ」というその水のとりこになる。
水をすすめてくれた同僚の「落合さん」夫婦を崇拝し、教団に入信して暮らしのずべてを教団に捧げる。水のおかげなのか風邪一つひかないが、少しづつ貧しくなっていく。
5歳年上の姉「まーちゃん」は、いつの頃からか両親の入信をうとましく思い、おじさん(母の弟)と結託して「金星の水」がただの水道水にすぎないことを暴こうとする事件を起こし、やがて家出する。
親類縁者は、葬儀の場でも教団の呪文を唱える夫婦を絶縁し、7回忌などの法要にも呼ばなくなった。しかし、せめてちひろだけは救い出せないかと、あの手この手で両親との引き離しを画策する。
ところが、肝心のちひろは、貧しい信者と化した両親を、周囲に対して恥ずかしいと思う感情もあるが、強く愛してもいる。
信者の子どもであることが理由で笑われたりいじめられたりもする学校を、疎ましくも思うが楽しくもある。
月に2回の信者たちの集会や、年に一度の研修では、年代・性別を超えた少年少女・青年たちがみなものすごく仲がよく、笑いがたえない。「学びの時間」や「ワークの時間」は楽しくないが、大学生の美男美女のカップルが一緒の遊びの時間は、こよなく楽しい…。

いったい、この小説はなんなのか、作者はなにがいいたいのか、という問いがどうしてもアタマから離れません。
「ふつうの暮らし」と「あやしげなカルト教団」との間に、なにか違いでもあるんですか、という問いかけだろうか。愚かな夫婦とお思いでしょうが、人間みんな愚かな存在ではないんですか、というシニカルな人間観だろうか。生きるということの意味を、限定したり判定したりするな、どのような生も肯定せよという人間讃歌だろうか。洗脳された少女の独白という、これまでの小説世界になかった手法で楽しませるという技法的な実験なのか。

問いが宙に浮いて、なんとも落ち着きません。
しかし、この作品が、小説表現の多様性に、誰も試みなかったものを一つプラスしたことは確かです。中学3年の少女が感じるままの、カルト教団のありよう、親への愛憎、親戚や学校を通してかかってくる世間の圧力。その、なまなましい手ざわりがただごとではない。
大きなハテナマークをつけたまま、とりあえず「問題作」の引き出しに入れておくことにします。

思い出される『カルト村で生まれました』の迫力

コミックエッセイ『カルト村で生まれました』(高田かや、2016年)は、ヤマギシズム共同体で生まれ育った女性が、35歳の現時点からこども時代の自分・親・共同体をふりかえったもので、どんな学者の考察、ジャーナリストのルポよりも迫力がありました。自分の信じるところにしたがって生きようとする個人も、集団も、放っておかれる権利がある。育った子供は、自分の意志でカルトから自立する権利がある。
オーム真理教のような邪悪なカルトが社会に牙をむいてきたときも、その犯した犯罪によって裁かれるだけで、内心故には裁かれてはならない。

若い頃は「宗教はアヘンだ」と信じた時もありました。人生経験を積むにつれ、他人が信じる宗教を、貶めたり干渉したりしてはならないと、肝に銘じています。
「(日本国憲法)第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
けっきょく、日本国憲法のこの条文にもどります。

今村夏子が放った「問題作」に、乾杯。
星の子 -  カルト村で生まれました。 -
今村夏子『星の子』朝日新聞出版、2017年、1400円+税。
関連:高田かや『カルト村で生まれました』文藝春秋、2016年、1000円+税。
posted by 三鷹天狗 at 10:17| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする