2017年07月25日

純正な「囲碁ファン」の人と、出会う

むかし「囲碁愛好家はいるが、囲碁ファンはいない」と高島俊男は言ったが…。

現役時代に通勤電車で愛読していた「週刊文春」に、高島俊男「お言葉ですが…」という連載があった(1995年〜2006年)。なんか強烈にへそが曲がっている感じの、在野の中国文学者・エッセイストです。数ある著作のひとつに『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(文春文庫)というのがあるくらいで、漢字や中国に関するウンチクと、歯に衣着せぬ悪口芸で楽しませてくれました。

高島は囲碁好きで、日曜日の午後、NHK囲碁トーナメントを見るのが楽しみ。しかし、番組の司会者が「囲碁ファンのみなさん、こんにちは」というのが気にいらない。
自分は野球をしないが野球をみるのは大好きという人たちを「野球ファン」というのはよい。同じ意味でサッカーファンもいるだろうし、ジャズファン、ミステリ小説ファンもいる。
しかし、囲碁に限って、自分は囲碁をうたないが、他人がうっている囲碁を見るのが好きという人間はいない。したがってこの世に「囲碁ファン」というものは存在しない。言うなら、囲碁愛好家といえ、というわけです。
なんだかなあ、という屁理屈です。
高島のすごいところは、その屁理屈をNHKに電話して、屈服させてしまったことです。いまの司会は長嶋梢恵さんですが、かならず「みなさんこんにちは」と始めます。ここ20年くらいの司会者も、決して「囲碁ファンのみなさん、こんにちは」とは言いませんでした。これは、何十年か前の、高島のしつこいクレームにNHKが音をあげてのことだと、エッセイにトクトクと書いています。
まったく困りもののじいさんですが、ま、確かに自分は碁をうたないのに囲碁番組を見る人はいないだろうなあ、とは私も思ったものでした。

ある土曜日に、例によっていそいそと碁会所に向かって外出したら、ご近所の、わたしと同年配のRさんがたまたま外にいて「おでかけですか」と声をかけてきます。「ええ、碁会所に」といったら「え、碁をやるんですか。わたしも碁は大好きです」とおっしゃる。「あらあ、ご近所に碁ができる人がいるとはうれしい。こんどぜひお手合わせしましょう」「いや、わたし碁はうったことがないんです。ただ、プロの対局を見るのが好きで、NHKの日曜日の放送や、囲碁将棋チャンネルの竜星戦をよくみています」
もう、ほんとに驚きましたね。
この世に、自分は碁をうたないが、プロの対局を見るのが好きという人が実在する。
お〜い、高島先生!あなたのクレーム、とりさげたほうがいいよ。
NHKさん、数十年前の屁理屈おじさんの呪縛から解き放たれて、はればれと「囲碁ファンのみなさん、こんにちは!」とトーナメント戦をはじめてください。

その後、日をあらためてゆっくりお話をうかがうと、亡くなった父上が碁が趣味だったよし。しかし、自分はうつ機会が一度もないまま、今日まできてしまった。囲碁番組をみるだけでなく、囲碁の入門書や囲碁関連本を読むのも好きで、何冊も持っている。
では碁を打つ気はまるでないのかと問いますと、いやぜひ打ってみたいという。
狐につままれたような思いで、碁盤を用意し、星目置いてもらって(=九子局で)対戦してみました。たしかに、初めてであることは、石の持ちかた置きかた、着手からわかります。しかし、プロの対局する囲碁番組を何十年も何百局も見てきただけあって、石がまるでトンチンカンなところに行くということはありません。
なにやら神聖なものと向き合っているような、厳粛な気持ちさえしました。勝敗が目的ではないので、途中でつぶれないようにしながら最後までうち、計算までしっかりやりました。「はじめて碁をうって感激です」と喜んでおられます。
いやはや、人生なにがあるか分からないものです。
こういう方が一人いたということは、日本全体ではきっと他にもおられるはず。現にRさんは「碁をうたないのに囲碁番組を見る人がいるとは信じられない」という私に、「いや、うちの家内なども碁はうちませんがNHKの囲碁番組は面白いと見ていますよ」とさらりといいます。

高島先生の思い込みが、現存する「囲碁ファン」にくつがえされたことに、乾杯。
何十年来の囲碁ファンの、初めての対局相手をつとめることになった機縁に、乾杯。
高島俊男『本が好き、悪口言うのはもっと好き』文春文庫、1998年、476円+税。
高島俊男『お言葉ですがですが』(1〜10)文春文庫1999年〜。
posted by 三鷹天狗 at 08:19| Comment(0) | 囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

たのむよ、さるすべり

下田・南伊豆から帰っての初散歩で、さるすべりの花がきれいに咲きはじめました。
sarusuberi20170722_065231_.jpg さるすべり.jpg
これから猛暑がつづく日々のなかで、散歩コースいちばんのはたらきものです。
さわやかで、かろやかで、涼しげ。
別名「百日紅=ひゃくじつこう」というくらいのもので、とても長く咲き続けるのもえらい。
たのむよ、さるすべり。夏をのりきる早朝散歩の、かけがえのない伴侶です。

左は今が最盛期のカンナ。これが黄色というものです、という見本のような鮮やかな色彩です。右の赤い花は最近満開になりました。涼やかないい花ですが、名前が分かりません。
散歩2017.jpg 散歩20170722_.jpg
早朝散歩に力をかしてくれるくれる夏の花たちに、乾杯。
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posted by 三鷹天狗 at 10:20| Comment(0) | 散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月21日

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

愉快・痛快、理系の傑作本。アフリカで「神の罰」=蝗害とたたかう若き昆虫学者。

若くてエネルギーに満ちた昆虫学者が、「オレがアフリカの飛蝗問題を解決してやる」と西アフリカ・モーリタニアに乗り込んでいく。いいですねえ。
若い理系の学者の場合、「オレが宇宙の秘密を解きあかす」「オレが深海生物を解明する」といった気負いにみちたチャレンジが面白いわけで、そこでの失敗やジタバタ、思いもかけない発見などが、わたしたち一般の読者を楽しませてくれるわけです。
本書には「アフリカの飛蝗」という大テーマと並行して、失業ポスドク(博士研究員)の職探しという、卑俗かつ深刻なテーマが流れており、二重に興味深い。ハラハラドキドキしながら感動のエンディングという、学術エンターテイメント本の、王道をゆく展開です。

モーリタニア(正式名称「モーリタニア・イスラム共和国」)は、旧フランス植民地の農業国で、公用語はフランス語、酒は禁止というお国柄です。
「日本では35℃を超すと死者が出るところ、こちとら45℃を超えている。秋田県民ならいつ死んでもおかしくない気温だ。」
著者は秋田県出身。肥満児の昆虫少年が、県立秋田中央高校、弘前大学農学部、神戸大学大学院で博士号取得と学歴を積み、昆虫学者になるという夢はかなえた。しかし、ご飯が食べられる安定した職にはなかなか就けない。だいぶ前に『高学歴ワーキングプア』(水月昭道著、光文社新書、2007年)という本があったが、前野がまさにそこに描かれている低収入ポスドクです。
一石二鳥ねらいのアフリカ行きです。蝗害を解決するという壮大かつ崇高なテーマにチャレンジし、その成果でどこかの大学か研究機関から声がかかるのを期待する。そうは問屋がおろさないと大人なら考えるところですが、若い学者は突撃していく。しかも2011年4月11日、あの東日本大震災の直後という時期に…。

出迎えるモーリタニアの「国立サバクトビバッタ研究所」、ババ所長が大人物です。
「(大地震で大変なときに)日本からきたサムライを歓迎する。コータローが頑張れば我々モーリタニアはもちろんのこと、日本の励みにもなるから頑張ってほしい。」
視野が、大きく開けている。それからの3年間、上司として、先輩学者として、ババ所長の大きな人柄、学識、経験は前野を励まし、導きつづけます。前野に「ウルド(○○の子孫)」という、モーリタニアの伝統的な名前を授けたのもババ所長です。
専属の運転手としてかかえたティジャニの、賢く、狡く、勇敢かつ世慣れている「砂漠の庶民」ぶりも魅力的です。ティジャニの第2夫人、研究所の同僚たち、市場の商人、「イナゴを買い取る」と聞いた砂漠の子供たち。話しの進展とともに触れあっていくモーリタニアの人々に対して、つねに敬意をもって接していく。イヤなこと、理解不能のこともあったろうに、そうしたことはほぼ書かれないか、すでに浄化している。前野ウルド浩太郎、人柄いいなあ。

意気込んで突撃したのに、大干ばつのせいでモーリタニアのバッタは姿を消している。実はバッタの大発生は、いつ起きるか誰にも予測できない。1987〜8年にアフリカが壊滅的な打撃をうけたサバクトビバッタの大発生をみて、ドイツは大型の研究チームをモーリタニアに派遣した。しかし、バッタたちは姿を消し、チームは研究成果なしで空しく引き上げざるを得なかった。あろうことか、引き上げた翌年、ふたたびバッタの大発生がおこる…。
古代エジプトではバッタの翅(はね)の模様はヘブライ語で「神の罰」と刻まれていると言い伝えられた。地上の植物・穀物を食い尽くす天災として、長く人類を苦しめてきた大問題です。これほど科学が発達した今も、大発生のメカニズムを解き明かし事前に抑止する方策は発見されていない。発生してから農薬(人体にも家畜にも有害)で叩くという、いたちごっこを繰り返している。
前野は、3年のフィールドワークと、最終年の大発生との遭遇で、なにやらヒントをつかんだみたいなのだが、本書では「学術論文発表前なので」という理由で明かされていない。

モーリタニアでの苦闘のかたわら応募していた「京都大学白眉プロジェクト」に、前野はみごと採用され、特定助教となる(現在はさらに、国立研究開発法人国際農林水産業研究センターに転籍)。この採用面接試験の、緊張に満ちたやりとり、京大総長のさすがのふるまいなど、印象に残ります。

感動のエンディングは、母校県立秋田中央高校での、後輩相手の講演会という、ささやかすぎるイベントです。
「質疑応答中、いけない女子高生たちが、私目がけて手を振ってくる。こんなにチヤホヤされたことなどない。『自分もウルドになりたいッス』と小粋な感想を述べる男子生徒もいた。私は今日という喜びを迎えるために、これまでがんばってきたのではないか。」
おい、国際的昆虫学者をめざす人間としては喜びのしきいが低すぎないか、とツッコミが入るところですが、秋田出身の呆け天には前野の喜びも、後輩たちのうれしさも、充分に伝わってきます。昔から「江戸の大関より故郷の三段目」というではありませんか。
きっと江戸の大関に、やがて育っていくであろう前野ウルド浩太郎の、母校での門出に拍手を。

これから若い学者が書く一般書の、基準になってほしい。

本書で特筆すべきことがもうひとつあり、それは、前野の文章が抜群にうまいことです。
全体のタイトル「バッタを倒しにアフリカへ」も秀逸ですし、本文の数ページごとについている小見出しが、サハラの洗礼、怯えるアフリカ、バッタ家族、相棒ティジャニ…など、「それはなんじゃ」と食欲をそそるみごとな惹句になっている。本文も、常にユーモアをたたえ、美味しいビールを飲むように読める。
これは若い理系学者の本としてはちょっと例がない。前野は、縁あって雑誌『プレジデント』(隔週)に連載をもったことがあり、毎号1600字程度のエッセイを書いた。このとき担当編集者・石井伸介から、「てにをは」の使いかたから「読者のことを常に想定し、文章を磨きに磨く」ことをたたきこまれたという。前野は「最強の赤ペン先生」という一項をたてて、石井への感謝を述べています。名伯楽あっての理系文筆家の誕生で、深く納得です。
若い学者の書いたもので、テーマは面白いのにあまりにも文章がお粗末で、読むにたえないものにぶつかることがあります。わたしの怒りは著者だけではなく編集者・出版社に向かい、やがて「活字文化の衰退」という、あらがいがたい趨勢を嘆いて終わります。出版社に、若く未熟な著者を教育し、たたき直して「読者が読むにたえる文章」にさせるだけの力量がなくなっている。
その点本書は、プロの編集者・校正者と若い学者が、二人三脚で仕上げた本という完成度があります。
ぜひとも、これから若い学者が書く一般書の、基準になってほしい。

「神の罰」から人類を救う使命を帯びた昆虫学者の誕生に、乾杯。
バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書) -
前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』光文社新書、2017年、920円+税。
posted by 三鷹天狗 at 11:27| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする