2018年06月12日

「カフェ・ド・クリエ プラスゆいの森あらかわ」店員さんの神対応に感謝

カフェでコーヒーをひっくりかえす失態を初体験

6月10日「ゆいの森あらかわ」の瀬尾まなほ講演会が終わった3時過ぎに、コーヒーでも飲むかと一階の「Cafe de CRIE PLUS (かふぇ・ど・くりえ ぷらす)ゆいの森あらかわ」に入りました。
わたしは「吉村昭記念文学館」の友の会会員になっており、講演会や特設展示などがあるとでかけます。ここに来るときは、昼時ならランチ、それ以外の時間ならコーヒーのため、この店に入ります。明るく清潔な店内、しっかりしたランチもおいしいし、コーヒーになにか甘いものというのも結構。

トレイにコーヒーとクリームパンをのせて、広いテーブルの空いている席に座ろうとしたとき事件はおきました。
両手でもったトレイをテーブルの上に置こうとしたら、右肩にかけていたショルダーバッグがすべり落ちて、曲げている右ひじにガッとひっかかった。その衝撃でガタンとトレイがテーブルにぶつかり、呆れるほどみごとにコーヒーカップが回転しました。
トレイの中だけでなく、テーブルの上、イス、床にまで、派手にコーヒーが飛び散ります。ふだんは斜めがけにしているショルダーバッグなのに、この時に限りなぜか右肩の片側がけにしていたのです。
たまたま両隣りに座っているお客さんがいなかったので、他の人の衣服や持ち物にコーヒーがかかるという最悪の事態にならなかったのは、不幸中の幸いでした。
カウンターに声をかけて「すみません、コーヒーをひっくりかえしてしまったので、布巾をかしてください」というと、「はい、ただいままいります」と女店員さんが出てきて、すばやくテーブルを拭き、イスや床などもあっという間にキレイにしてくれます。
「いや、申し訳ない。コーヒ―をもういちど買わなくちゃ」というと「けっこうです。すぐに新しいものをお持ちしますので」と笑顔で対応。新しいトレイとコーヒー一式を持ってきてくれました。

まさに神対応。まわりのお客さんたちも、最初にガチャンとひっくりかえした時はびっくりして見てましたが、店員さんの対応がはじまってからは見てみぬふりをしてくれています。

やれやれ、年をとるというのはこういうことかと、思い知らされます。
小さな段差にけつまづくとか、誤嚥でむせるとか、加齢による身体反応の誤作動はいろいろはじまっていますが、衆人環視のなかでのコーヒーカップひっくりかえしは、初体験です。
みっともないやら申しわけないやらで、小さくなるところですが、カフェの店員さんのすばやく親切な対応に救われて、精神的なショックは最小限ですみました。持参の本など読みながらコーヒーを飲みおえ、お礼の声をかけて退出、帰宅してから、感謝のハガキを書きました。

わたしは初体験ですが、もしかしたらコーヒーひっくりかえしというのは、セルフサービスの店ではよくあることなのかもしれません。転ぶばあいもあるだろうし、ショルダーバッグすべり落ちもあるかもしれない。それへの対応も、店ごとに確立しているのでしょう。
それにしても、このお店の対応はみごとでした。動転していて、店員さんの名札は見忘れましたが、あらためてお礼を申し上げます。あのときはありがとうございました。

Cafe de CRIE PLUS ゆいの森あらかわ・店員さんの神対応に、乾杯。
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2018年06月11日

瀬尾まなほ講演『秘書だけが知る瀬戸内寂聴の素顔』

瀬戸内寂聴のバトンをしっかり受けとっている

吉村昭記念文学館が企画した「瀬尾まなほ講演会」を聞きに、6月10日、荒川区「ゆいの森あらかわ」にでかけました。
瀬戸内寂聴と吉村昭・津村節子夫妻は、まだおたがいに無名だった同人誌時代からの、半世紀以上のつきあいの間柄であり、その縁で企画された講演会です。
瀬尾は「日暮里の駅でお迎えの方とお会いした時、私の話しなど聞きに来てくれる人がいるだろうかと不安を口にしたら、参加申し込みの受付日に満席になったとおっしゃいました。それで逆に不安になったのですが、今日、寂聴が来ると思っていらっしゃった方はおられませんよね。」
会場はどっと笑います。つかみはOK。さすがは寂聴の秘書です。

最初に、どこかのTV局が作ったらしい5分くらいの映像で、瀬尾の秘書としての日常が流されたあと、すこし緊張気味の、ききとりやすい、大きな声で話しがはじまります。きっとふだんから寂聴にこういう大きな声で話しかけているんでしょう。
就職活動がうまくいかず自信をなくしていた瀬尾に、茶屋でバイトをしていた友人が「うちの女将さんが、寂聴さんに頼まれて若い秘書をさがしているらしいから応募してみたら」と勧めてくれたこと。そのときには、尼さんだとは知っていたが、小説家だとはしらなかったこと。病身をおして反原発や国会前デモに出かけていくことへの大きな違和感…。
ある日、寂聴に「こんなに多くの人が、どんなに訴えても原発は止まらない。実らないことをやることに意味があるんですか」と質問した。寂聴は、「デモや集会をしたから簡単にものごとが通るなんてことはない。しかし、こういう声をあげた人たちがいたということは、歴史に残る」という。
「わたしたちの世代では実らなくとも、子や孫の世代、これから生まれてくる世代のために、声をあげるんだ」と教えてくれた。
わたし(瀬尾)は、デモとかストライキといったことを知らないで育った。自分と自分の知り合いが幸せであればいい。実らないことをするのはムダという考えで生きてきた。実るか実らないか、そういうふうにものごとを考えない生き方があることを、初めて知った。
「瀬戸内は、常に単体で行動します。誰にも相談せず、誰も誘わない。やると決めたら、誰にも止めることはできない。わたしは瀬戸内が『国会前に行く』と言ったら、切符を手配し、宿をとり、うちあわせの約束などのキャンセルやお詫びの電話をかけ、国会前にも一緒についていきます。」

2年前から、貧困や虐待、障害など、さまざまな困難を抱える若い女性を支える全国ネットワーク「若草プロジェクト」にかかわるようになった。瀬戸内寂聴や村木厚子(元労働事務次官)のよびかけでつくられた団体です。
秋葉原や歌舞伎町で、キャリーバックをひきずって歩いている家出女性を、風俗やアダルトビデオのスカウトマンが罠にかけていく。わたしたちが配るティッシュペーパーの電話には、反応してくれない。「警察に通報される、親に連絡される、施設に入れられる」と思われている。スカウトマンたちに完全にまけている。彼女たちのような存在があることさえ知らなかったわたしは、ショックで心が病んだりもした。
「でも、いつか、たったひとりにでも、声が届くかもしれない。母校(京都外語女子大)に講演でよばれたときにこの話しをすると、食いつきがちがう。貧困や虐待とは無縁の暮らしをしている彼女たちでも、関心は示してくれる。」

瀬尾と寂聴のことがテレビでとり上げられたり、瀬尾の本が売れたりすると「寂聴さんをいじめている」「思い上がっている」といった声がくるのだという。うたれ弱い瀬尾は、それだけで心が折れそうになる。あるとき寂聴にそのことを訴えたら、寂聴は言った。
「あのね。そういうことをいうやつはブサイクなの!」
そのひとことで、ふっきれた。
「瀬戸内がよく笑うことで若返ったといわれます。瀬戸内が笑ってくれるんなら、わたしは何をいわれても平気です。これからも、一秘書として瀬戸内を支えていきます。」

実に結構な講演でした。
瀬戸内寂聴の法話をきいて、その教えを胸に刻んだ人は、何万何十万といることでしょう。瀬尾は、寂聴を秘書として支えるだけではなく、いまやもっとも若い伝道師として、寂聴のバトンを受けとっています。

国会前の大きなデモの日に

6月10日は、国会前で2万人以上が集まる大きなデモがありました。参加した人たちがさまざまな写真をアップしています。
国会前0610.jpg 国会前20610.jpg 国会前30610.jpg
日本の政治が、安倍ブラック政府のもとで、大きく歪んだ方向に向かっている。抗議の声、怒りの声はなかなか実らない。
しかし、寂聴の「声をあげた人たちがいたということは、歴史に残る」という言葉は、真実です。

瀬尾まなほの「瀬戸内が笑ってくれるんなら、わたしは何をいわれても平気」に、乾杯。
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瀬尾まなほ講演『秘書だけが知る瀬戸内寂聴の素顔』「ゆいの森あらかわ」6月10日(日)14:00〜15:00。
関連:2017年12月31日、瀬尾まなほ『おちゃめに100歳!寂聴さん』http://boketen.seesaa.net/article/455895083.html
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2018年06月09日

後藤正治『奇蹟の画家』

49歳まで完全に無名だった画家を、神戸という街が見出す物語

横浜とならぶ国際貿易都市神戸。人口150万人の大都市ですから、それだけで自足できる政治・経済・社会・文化があるだろうことは想像できます。

49歳までまったく無名だった画家・石井一男と、神戸の海文堂ギャラリーの主宰者・島田誠の出会いは鮮烈です。
神戸で生まれ育った石井は、アルバイトで生計を維持しながら、誰にも見せることのない絵を描いてきた。ほとんど世間と没交渉で生きてきた石井は、ある日、意を決して島田に電話し、絵をみてくれと頼む。次の日、石井が持参した絵をみた島田は「巧拙を超越した」「聖なるものに到達している」絵に、息をのむ。
その年、1992年10月に開催された個展は、無名の画家としては異例の反響をよぶ。神戸は、石井一男を発見した。
石井一男「女神」.png 石井一男「女神」2.jpg 石井一男.jpg<ネットから拝借>
第1回の個展は大きな反響をよび、一点4〜6万円ほどで販売された石井の絵は、画廊40パーセント画家60パーセントという島田ルールに基づいて精算され、約100万円が石井にわたされた。
石井は「おカネは結構です…亀井純子文化基金というのがありましたよね。寄付させてもらえませんか」という。
亀井純子文化基金は、神戸のオランダ総領事館で文化担当官をしていた亀井純子が40歳の若さで癌のため死去、遺志により寄贈された1千万円を基金に創設されたもの。島田も世話役として運営に携わっている。石井の申し出に驚いた島田は、こう言って断った。
「石井さん、誠にありがたいお話ですが、この基金はあなたのような人の援助のために存在している基金でありまして…」
おもわず吹きだす、じつに印象的なやりとりです。石井一男、島田誠というふたりの男の人間像が、くっきりと伝わってきます。
初個展から17年後、神戸だけではなく、東京の小さな画廊でも個展をやれば多くの客がくるまでになった石井は、再び亀井純子文化基金への100万円の寄付を申し出る。島田は基金の運営委員に集まってもらい、「厚意をありがたく受けさせていただく。ただし、金額は申し出額の半額とする」という結論をだした。

後藤は、石井にだけ密着するのではなく、石井の発見者・島田や、石井の絵を愛好したさまざまな人びとへのインタビューを通じて、石井の絵の魅力を解きあかしていきます。
病魔とたたかう元ジャーナリストが、病室に飾った最後の絵は石井の「女神」だった。
骨髄移植を目前に控えた公務員が、訪れた海文堂ギャラリーで購入したのは「女神」だった。
阪神淡路大震災(1995年)で自分も被災者となった石井は、「恋」と題した炎の絵を描く。震災で亡くなった小学生の教え子を偲ぶ元教員は、この絵を自宅に飾る…。
神戸という街が、孤独な魂が叫んでいるような石井の絵を、発見し、受容し、育てていく。絵と街の出会い、孤独な魂と人々との出会いが、感動的です。

清酒もカラオケも神戸が発祥?

石井一男の、孤高・孤絶の絵を、ふところ深く受け入れて行く神戸。
「神戸にはわが国発祥といわれるものが少なくない。ゴルフ場、洋菓子、清酒、映画館、マッチ、真珠、ケミカルシューズ、マラソン、カラオケ、トンカツソース、ソバメシ…などなど、神戸のハイカラ文化ともよばれるが、多分にゴッタ煮であって、人とモノが行き交う港町のなせることであろう。」
清酒が神戸発祥なの?そういえば、江戸っ子がありがたがっていた上方から下ってくる酒というは、神戸の酒か。カラオケも?こちらもネット検索するとすぐでてくる。こわもての人たちも微妙にからんでいるみたい。マラソンも映画館も神戸からですか。ソバメシなんて聞いたこともない。
東北・関東圏に棲息してきた身からすると、神戸は大阪・京都ほどにはなじみがない。この本を道案内に、いちど遊びに行ってみたくなりました。

石井の「聖なるものに到達した」絵と、石井を育んだ港町・神戸に、乾杯。
奇蹟の画家 (講談社文庫)
後藤正治『奇蹟の画家』講談社、2009年、1700円+税。
関連:神戸トピックスhttps://kobeport.exblog.jp/9798534/
2014年05月13日、後藤正治『清冽ー詩人茨木のり子の肖像』http://boketen.seesaa.net/article/396920525.html
posted by 呆け天 at 08:46| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする