2017年09月13日

椎名誠『家族のあしあと』

いいなあ椎名少年。埋め立て工事がすすむ幕張海岸で輝いている。

椎名誠が、自分の記憶がはじまる4〜5歳の幼児期から、小学校6年生までをゆっくりと描いた「明るい私小説」少年編です(つづきは『すばる』に連載予定)。
椎名ワールドに関心がない人は手にしないし、椎名だいすき人間が読むとしみじみと心に沁みる。「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」の、双葉の時期の椎名少年の話しです。どんなエピソードも、すでに(本で読んで)知ったつもりになっている椎名誠を逆投影して読む。なるほど、幼児の椎名はそうふるまったか、少年の椎名ならいかにもそう言っただろうな、などと訳知り顔に読む。初めて聞く話ばかりなのに、なぜか懐かしさの感情さえわいてくる。
ノーベル賞を受賞したり、オリンピックで金メダルをとったりした人の、小学校時代の恩師がでてきて語るエピソードが、いかにも今日そうなることを予感させるような子どもだった、というオハナシになることと同じです。

小学校5年生の2月という中途半端な時期に転校してきた、伊藤夏実という女の子の名前のような小柄な男の子と、通学路の方向が同じなのでともだちになる。都会育ちで裕福らしい伊藤君はいじめの対象になり、ある日15人くらいでとりかこまれリンチされかかっているところに、椎名少年はかけつける。首謀者をつきとばし、倒れている伊藤君を助けおこしながら「さあこい、一人ずつでこい」と「無念ながら少しフルエルような声」で叫ぶ。
「(声がフルエたのは)無理もないと思う。このときがぼくの人生初の喧嘩だったのだ。」
人生初のケンカが、自分の身を守るためではなく、小柄な友人を守りながら15人を相手にきったタンカだったというところに、後のケンカにあけくれる高校時代のすがた、沢野・木村・目黒などとの生涯にわたる友人づきあいの原型がくっきりと浮かんできます。かっこいいなあ、椎名少年。

異母兄弟たくさんの複雑な家庭のなかで誰よりも好きな姉・夏子が、先妻の子どもなのか自分たちと同じ母親の子なのか、母にも、姉本人にも聞けない。そのグジグジ感は、実は椎名の書く文章に底流としてながれているものだ。体育会系で単刀直入という、外貌からの印象とはことなり、まるで太宰治のグジグジ内面吐きだし系のような要素が、椎名にはある。
ただし、それは「いいや、どうだって」という、小学5年生頃から胸のなかに住みついたらしい言葉との振幅のなかで書き表わされる。ま、その要素(内面グジグジ)がなければ、自分のことをこれほど長期にわたって書き続け、かつ読まれ続けることはできません。

突き抜けるような青い空のもと、埋め立て工事が始まっている幕張の海岸で遊びまわる7〜8人の少年の集団。工事現場のトロッコに大人の目を盗んで乗る、アカ(しんちゅう)がカネになるとホームレスのおっさんに教わって目の色をかえる、職員室に呼び出されたら泣いて白状してしまうなかまに「泣くなよな」と胸のなかでつぶやく。学芸会で「マヌケな大男」の役をふられて観客の笑いをとる快感を知る。いかにもそういうことがあっただろうなあ、というエピソードが、ゆったりと語られます。

家族が笑って食卓を囲む情景は、ほんのひととき

小学5年の時には、父が亡くなっています。あるかなきかの父との交情に心打たれるか。昭一やカッチンなど悪ガキ遊び仲間との冒険譚にひきつけられるか。読み方はそれぞれです。
読む当方も70歳となった今となっては、家族が笑い合って食卓を囲む情景など、すぐに消えてしまうほんのひとときの幸せなんだという描写に、しみじみと納得感があります。

「さあこい、一人ずつでこい」と叫んで身構える椎名少年に、乾杯。
家族のあしあと -
椎名誠『家族のあしあと』集英社、2017年、1300円+税。
関連:2017年05月14日、「本の雑誌厄よけ展」http://boketen.seesaa.net/article/449810677.html
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2017年09月09日

青山文平『遠縁の女』

江戸時代に、まるで違う角度から光をあててみせる

毎回、そんなことがあったのか、という新鮮な情報・知識を伝えてくる青山文平の時代小説。
3本の中編を集めた本作も、それぞれに「へーッ」と驚かされる、爛熟期(寛政〜文化・文政期)の江戸時代の武家社会の仕組みやしきたりが描かれます。ただしそれは、いつの世も変わらない人の心の動きや男女の機微がつくりだすドラマにのせて描かれる。練達の芸で、時代小説を読む楽しみにふかぶかと浸らせてくれます。

『機織る武家』は、下級武士の妻と、賃機(賃仕事の機織り)。
小録の武家に、後添えとして入った女が、生きるために機織りの技を発揮して一家の柱になっていく物語。話しの進展とともに、武家の内職として、機織りがふつうに行われていたことが伝わってきます。
映画『たそがれ清兵衛』(監督・山田洋次、原作・藤沢周平)に、海坂藩の下級武士である清兵衛が、夜食後に虫籠造りに精をだす場面があります。原作ではサラリと読み流してしまうところですが、映画では強く印象に残ります。清兵衛が、仲買相手に慣れない値段交渉をして断られてしまうところなど、映画全体に切ないリアリティを与えています。
武士が虫籠造りをするくらいですから、妻が機織りの賃仕事をするのも、それはまた当たり前のことだったろうなあ。機織りといえば農家の女たちの仕事と思い込んでいましたから、主人公・武井縫が娘時代から機織りの技を身につけていた、しかも名手だったということが武井家を経済的な苦境から救い、地場産業である織物に新しい風を吹き込むといったお話の展開に、すっかりひき込まれました。

『沼尻新田』では、野方衆という「年貢免除」の農民=郷士の存在。
野方衆=郷士は、昔はれっきとしたお抱え藩士だった。藩に扶持(給与)を与える財力がないので、開墾に従事させるという形で首を切られた者たちだ。だから現役の藩士たちは、郷士を見下している。ところが、開墾に従事した者たちは刻苦奮励して農作物を実らせ、年貢免除の特典を与えられていることもあって、豊かになってくる。そうなると妬みの感情が湧いてきて、野方衆からも年貢を取れといった議論がでてくる。なるほどねえ。
青山は、前作『励み場』(2016年)で、「名子(なご)」という土豪百姓の隷属農民に光をあてた。かつて武士だったが、主人が土豪百姓になったために、生涯を農村の最下層に釘付けにされてしまった身分の者が、どうやって身上がり(百姓から武家に出世する)をめざしたか。まるで初めて聞く話でした。
今回は、野方衆=郷士のなりたちと、一般藩士との緊張・確執です。名子とか野方衆とか、農村といっても一色ではない景色が、なまなましくたちあがってくる。煮詰まってしまった官僚制支配(藩)のなかで、凛々しく生きる主人公・柴山和己がすがすがしい。

表題作『遠縁の女』は、時代遅れとみられている武者修行にでた剣士の物語。
すでに終わっている剣の時代。しかし、父は敢えて跡継ぎ息子・片倉隆明に5年の武者修行に出ることを勧める。もともと学問より剣に惹かれていた隆明は、半信半疑ながら修行に出てみると、剣の真理を求める者たちにもまれながらあっというまに時を経る。隆明がたどりついた最後の修行の場は、おとがめを受けた藩が流されてくる転封地にある「野の稽古場」だった。流されてやって来るろくでもない藩に対し、武士より強い百姓たちがいることを誇示するための道場で、命がけの稽古が繰り広げられている。百姓たちの剣は生きるためであり、隆明・武士の剣は死ぬためのものであるというみごとな対比。
武者修行という時代小説ではおなじみの事柄が、まるで違った色彩を帯びてくる。じっさい、こんなことがあったのだろうか。庶民の剣法といわれた真庭念流を想定しているのか。実在した藩や剣の流派名は出てこないので、いっそう想像がふくらみます。
父の急死で修行を切り上げて帰藩した隆明を待っていたのは、城下で評判の美人だった遠縁の女をめぐるスキャンダルだったという展開になります。

第1話と第3話の結末は、家禄返上です。青山は、爛熟・閉塞した武家社会からスピンアウトするという選択をした者たちを描くことで、ながい停滞期に入っている日本で生きるサラリーマンに、人間生きたいように生きるべしと語っているように感じます。

表紙の装画に意表をつかれる

表紙の装画は、寺松国太郎「櫛」です。湯上りの裸体、独特のエロチシズムを発する洋画で、3作のどれとも、直接のつながりは感じられない。青山が好きな画家というだけなのか。女の、ふてぶてしいまでの生命力こそ、いつの時代も変わらない真理だというメッセージか。不思議な表紙デザインですが、なにかつよい磁力をはなっています。

青山文平の筆が見せてくれる、知らなかった江戸時代のすがたに、乾杯。
遠縁の女 -
青山文平『遠縁の女』文藝春秋、2017年、1500円+税。
関連:2017年01月07日、青山文平『半席』http://boketen.seesaa.net/article/445656047.html
posted by 三鷹天狗 at 10:54| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月07日

手塚治虫・水木しげる他『マンガでわかる戦後ニッポン』

岡崎京子作品に魅了される。30年前にこんなマンガがあったのか。

13人の漫画家の作品を、「廃墟からの復興」「高度経済成長」「繁栄の光と影」「過去から未来へ」という4部に分けて編んだアンソロジー。戦後70年の日本のさまざまな貌が、あざやかにスケッチされています。
手塚治虫、水木しげる、つげ義春をはじめ、マンガ好きなら誰でも名前を知っている有名な作家ばかりです。わたしは特に岡崎京子の作品に魅了されました。80年代に大活躍し、その才能を讃えられていた作家らしいのですが、これまで読む機会がありませんでした。
『秋の日は釣瓶落とし』という、三回に分けた連作短編(1986年)。
休日出勤した会社で倒れ、そのまま亡くなった定年間近のサラリーマンの葬式が、しめやかに行われている。その場に、涙で顔をグショグショにした女装の男が飛び込んでくる。亡くなった男の次男で、モデルをしている乾伸夫(25歳)。この造形があまりにみごとでのけぞりました。
すれ違いで離婚寸前の状態にある長男夫婦が主役のドラマなのですが、おはなしに推力と救いを与えるのは、トリックスター役の伸夫です。おかまとかニューハーフとか、そういうことばは一度も出てこない。このごろテレビでときどき見るミツコ・マングローブ(女装家)を、30年前に先取りしているような造形です。
シリアスな絵とギャグ調の絵がミックスされ、脳味噌が心地よく攪拌される。こんなにすごいマンガが、30年前に描かれていたのか。知りませんでした。
検索すると、その天才を愛されていた岡崎は、人気の絶頂期にあった1996年に交通事故にあい(ひき逃げされた!)、その後遺症で作家活動を絶たれたという。今も彼女の作品を愛好する人は多く、映画化されたり、作品展が開かれたりしているらしい。この1作を見れば、天与の才はストレートに伝わってきます。この人の作品をみつけて読むという、老後の楽しみがひとつ増えました。
1963年生とあるので、呆け天が大好きな「姪っ子世代作家」(中島京子、小川洋子etc)にあたります。事故当時まだ30代前半か。これほどの才能が、ひき逃げで損なわれるとは!犯人は捕まったのかしら。

掲載13作品は、以下の通り(掲載順)で、それぞれにすばらしい。
手塚治虫『紙の砦』、水木しげる『国際ギャング団』、つげ義春『大場電気鍍金工業所』、はるき悦巳『力道山がやってきた』、ちばてつや『風のように』、勝川克志『ミゼットと電気店』、大友克洋『上を向いて歩こう』、西岸良平『丹沢の棟梁』、諸星大二郎『不安の立像』、かわぐちかいじ 『抱きしめたい』、岡崎京子『秋の日は釣瓶落とし』、谷口ジロー『犬を飼う』、村上もとか『あなたを忘れない』。
諸星作品は1973年のもので、地獄のような真夏の通勤電車に乗っているサラリーマンが、みんな上着・長袖・ネクタイ姿です。恐ろしいことでした。記憶がよみがえって、背中がぞわっとしました。

内田樹の解説が、いつもながら秀逸

内田樹が「弱さの特権」としてのマンガを論じている。禁圧され、軽んじられた「弱いジャンル」としてのマンガは、だからこそ、ふつうの人たちが「なんの意味もないもの」と無視する細部をていねいに観察した。おわい屋のかつぐ排泄物の臭気、ぬかるみの道路、目もあけられない砂ぼこりー昭和20年代の東京は「そういうもの」に満ちていた。マンガこそが、それらを今に伝えている。
内田は、本書に収められた作品が、宮本常一「忘れられた日本人」と同じく、常民の日常を書き残すという大きな役割を果たしていると讃えます。賛成。

戦後日本を描写した、珠玉のマンガ作品に、乾杯。
30年の時を経ても光り輝いている岡崎京子の作品に、乾杯。
マンガでわかる戦後ニッポン -
手塚治虫・水木しげる他『マンガでわかる戦後ニッポン』双葉社、2015年、1400円+税。
追記。<残念な編集上の混乱>
最初の構想では「廃墟からの復興」「高度経済成長」「繁栄の光と影」という三部構成だったのだろう。それを、どたんばで「過去から未来へ」という第4部をたてることにしたらしく、テーマと作品配分がずれてしまい、違和感があります。加えて、なんと中トビラが第2章と第4章入れ替わるという、ちょっと見ないような混乱が起きてしまった。せっかく良い企画なのに、残念。
posted by 三鷹天狗 at 09:35| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする