2018年05月22日

伊東潤『西郷の首』


加賀藩の足軽の眼から幕末・明治維新をみる

 書き尽くされたようにみえる幕末・明治維新ですが、本作は加賀藩の足軽身分の若者二人を主人公に据えたことで、これまで見たことのない景色が広がります。
なるほどなあ、こんな斬新な手法があったか。まことに、時代小説の素材・手法は無尽蔵です。

 明治維新の4年前、元治元年(1864年)の加賀藩で、歴代藩主の墓所を掃除する二人の若者の会話から長い物語が幕をあける。
当時の加賀藩は、当然のことながら、厳格な身分制のもとにある。藩主とその親族、重臣(「八家」)、上級家臣(「人持組」68家)、中級家臣(「平士」「平士並」)、下級家臣(「与力」)、徒士(かち)身分(「御歩」「御歩並」)に分かれている。足軽はその下で、さらに下には小物、中間、陸尺と呼ばれる雑役担当がいる。
しかし、加賀藩では雄藩の誇りから、足軽の居住環境にまで配慮していた。他藩であれば壁板一枚を隔てただけの長屋に住むのがあたりまえの足軽に、足軽小頭で70坪、平足軽で50坪の広さの一戸建てを与えていた。若者二人も、意気軒高としており、最下級武士の卑屈さといったものを感じさせません。

 島田一郎17歳、小柄でがっしりした体格、直情型。身分にしばられた時代が終わることを予感して、熱に浮かされたようになっている。
千田文次郎18歳、長身痩躯、穏やかで控えめな性格。空理空論を好まず、剣の腕は確か。性格や考え方はまるで反対だが、幼いころから遊びも勉学もともにした親友だ。
一郎は直情のままに生き、やがて不平士族の急先鋒となり、大久保利通暗殺の主犯となる。
文次郎は軍人となり、西南戦争に従軍して、薩摩軍が隠した西郷隆盛の首の発見者となる。不平士族の中に「まだ西郷はどこかで生きている」という神話が生まれなかったのは、首が発見されたからだった。
西郷と大久保、その終焉に深くかかわった元加賀藩の足軽二人、しかも二人は親友だった。じつに卓抜な設定で、「作ってないか!」と言いたくなります。小説ですから、まさに伊東潤がつくった物語なわけですが、史実に裏打ちされた迫真の展開で、時を忘れて呑み込まれます。

 加賀百万石が幕末の大波に揺らぎ、生き残りのために苦闘するさまも興味深い。
ときの藩主・慶寧の「三州自立割拠」の構想など、本書で初めてしりました。西洋文化を取り入れて殖産興業、富国強兵に務め、加賀・越中・能登に割拠して『義旗を揚げる=朝廷を守る』というもので、幕府・薩長のどちらにもくみしない独自の道はないかと模索した。
一郎と、後に「アドレナリンの発見者」となる高峰譲吉との出会いから生まれた窮民救済活動が、やがて藩の事業になる。直情の一郎が慶寧に直訴したことで、卯辰山に飢饉の窮民を救う養生所と撫育所がつくられ、さらに産物会所や種痘所、薬草園などに広がって行く。慶寧は「三州自立割拠」の象徴としてこれを育てようとした。これだけで独立した一編になるほど魅力的な挿話です。
もうひとつは、やってきた水戸天狗党への応接。吉村昭『天狗争乱』で、水戸天狗党が加賀藩で降伏したことが詳述されています。本書では加賀藩側からみた天狗党の最後が描かれています。天狗党を単なる暴徒としてではなく、志をもった武士として扱い、天狗党の幹部(武田耕雲斎、藤田小四郎)の面々も加賀藩に深く感謝する。小四郎の謦咳に接した一郎は、志士としての死に方を学ぶ。天狗党事件に、もうひとつの光をあてる挿話になっています。

 さすが加賀百万石、歴史の厚み、重みがちがいます

 加賀藩といえば『武士の家計簿』(磯田道史、2003年)です。加賀藩の微禄の陪臣が、算用(ソロバン)の技術で、何代もかけて少しずつ身分をあげ、維新後は兵站係としての能力をかわれて中央政府に出仕、海軍主計にまでのぼりつめる。能力が身分を凌駕していく。それも軍事・政治の能力ではなく、会計・経理の能力で。幕末・明治維新をみるもう一つの視点を示した、画期的な著作でした。
そしてこの『西郷の首』です。幕末の激動に翻弄されながらも、誇りをもって生き抜く藩士たちが、西郷・大久保と交錯する。さすが加賀百万石、歴史の厚み、重みがちがいます。

 加賀藩の足軽の眼から見た幕末・明治維新の景色に、乾杯。

 西郷の首

伊東潤『西郷の首』KADOKAWA、2017年、1800円+税。

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2018年05月16日

小川洋子『口笛の上手な白雪姫』

「先回りローバ」が、すべての吃音の子にやってきてほしい

ひとつひとつ独立した8つの短編。
連作短編ではないし、通底するテーマや趣向に貫かれているわけでもない。オビには「劇場で、病院で、公衆浴場でー。<声>によってよみがえる、大切な死者とかけがえのない記憶」という、意味不明の、しかしなにやら雰囲気のでたキャッチコピーが記されています。

第1作の「先回りローバ」がすばらしい。
ある心理的葛藤のために吃音になり苦しんでいる7歳の「僕」のまえに、箒(ほうき)と塵取(ちりとり)を持った老婆が現われる。数センチの大きさしかない老婆=ローバは、油断のない目、すばやい動作でなにかをかき集め、中身を前掛けのポケットに入れる。僕の声を回収しているのだという。
「お声だけがどうしても先走りしてしまわれる。あなた様のお口には無言が取り残される。そういうことでございましょう」
先回りローバは、その先走ってしまった声を回収し「ズレを修正」するのだという。
吃音というのはそういうことだったのか。
「僕」の吃音の原因ともなった、本当の誕生日と届け出の誕生日のズレを修正するために、ローバがひたむきに歌うハッピー・バースデー・トゥー・ユーが、読者の耳にも響いてくるようです。
これ、ジブリが短編アニメにしてくれないかな。名作アニメになること疑いなし。
すべての吃音の子に、先回りローバがやってきてほしい。

知り合いに子どもが生まれると、必ず刺繍入りのよだれかけを送る女(「亡き王女のための刺繍」)。
世の中の、かわいそうなことを書きとめる少年(「かわいそうなこと」)。
息子を亡くした叔母さんと、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観る(一つの歌を分け合う」)。
必ず迷子になる男の子が、外国旅行ではぐれる(「乳歯」)。
ある作家に夢中になり全作品を暗唱できる女が、作家の講演を聞きに行く(「仮名の作家」)。
廃線の危機にあるローカル線をまもるために奮闘する、曾祖父と曾孫(「盲腸線の秘密」)
公衆浴場で、入浴中の母から赤ん坊を預かって面倒をみる小母さん(「口笛の上手な白雪姫」)。

「仮名の作家」以外の作品は、赤ん坊か子どもをめぐる物語です。誕生した生命をめぐる世間のざわめき、社会の扉の前での子どもの逡巡。そこに老人・老女が死の彩りをそえる。ローバのハッピー・バースデー・トゥー・ユー、赤ん坊にしか聞こえない老白雪姫の口笛の子守唄。小川ワールドの住人たちが織りなす音楽劇のようでもあります。

「小説丸」作家インタビューでの、小川の自作解説

小学館が運営するWebサイト「小説丸」に、『口笛の上手な白雪姫』刊行にあたって小川のインタビューが掲載されています。
「自分では手に負えない、すごく大きな、書きたい世界があるんですね。その世界はとても漠然としていて、自分の視界には断片しか映らない。それをデビューしてから作家生活の中で、書いて積み重ねているのかなとも感じます」「最近は誰も書いたことのない斬新な小説を書こうとする必要はないと思うようになりました。(略)ふと迷いこんだ洞窟の壁に描かれていた読めない文字を、自分が読める文字にしている、という気持ちですね」
小川の小説が好きで読んできましたが、これほど納得のいく小川作品についての解説は初めて聞いたと感じます。
それにしても、本作は幻冬舎から出版されているのに、小学館の「小説丸」でとてもいいインタビューが載る。やりますね、小学館。

小川洋子ワールドの、さまざまな断片に、乾杯。
口笛の上手な白雪姫
小川洋子『口笛の上手な白雪姫』幻冬舎、2018年、1500円+税。
関連:「小説丸」作家インタビュー小川洋子 http://www.shosetsu-maru.com/interviews/117
2015年10月15日、ポール・オースター編『ナショナル・ストーリー・プロジェクトT、U』http://boketen.seesaa.net/article/427690250.html
posted by 呆け天 at 09:07| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月14日

佐藤優『民族問題 佐藤優の集中講義』

いま現在も、「新しい民族」の萌芽が世界のいたるところにある

日本人が民族問題に疎いのは、「日本人」が1億人を超える大民族だからだ。民族問題というのは、少数民族の側に身をおけば、差別されるなどして、身体感覚でわかる。大多数の側にいれば、「見えない問題」になる。日本人は民族問題を「まず知的に理解し、その上で実際の状況に接して感度をあげていく」しかない。
いわれてみればあたりまえの指摘ですが、いわれてみないとわからない。自分が民族問題にいかに疎いかを知るための一冊、といってもいい。

1、民族という概念はせいぜい250年くらい前にできたもの。
「歴史的に実証してみると、『民族』という概念は、せいぜい二百五十年ぐらい前にしか遡れない」
べつに日本に限らず、どこの国でも「民族」という概念はかなり後になってうまれてきたのだいう。
アカデミズムにおいては「道具主義」(支配層が統治のために、支配の道具としてナショナリズムを利用した)が主流。
人々の日常では「原初主義」(人種、言語、地域などの実体的な源をイメージする。「皇紀2600年」「中華5000年」のたぐい)が支配的。
アンダーソン、ゲルナー、スミスなどの学問的な探究から、スターリンの民族理論まで、先入観を排した紹介が行なわれます。紹介された本のいくつかは、読んでみるしかないか。佐藤優を読むと、読まなきゃならん本が増えてこまる。

2、民族問題は現在進行形。いまも「新しい民族」が生みだされつつある。
1989年の夏に、エストニア、ラトビア、リトアニアで、せいぜい300人くらいの規模の、ソ連からの離脱を求める反体制派の集会が開かれた。それは「反ソ的な集会も行えるほどゴルバチョフによる民主化は進んでいる」というニュースであって、「集会に参加していた人を含めて、バルト諸国が独立するなんていうことは、誰も夢にも思っていなかった。」
しかし、そのわずか3年後に、ソ連国家評議会はバルト3国の独立を承認する。この事例の指摘は鮮烈です。70年もソ連のくびきにとらえられていた人口130万〜300万弱の3つの小国が、あっという間に独立するなんてことが、実際におきた。これからもおきるだろう。
ウクライナ内戦で、ウクライナ東部住民は急速に「ロシア人」意識をもちはじめている。
中東に「シーア派のアラブ人」という「新しい民族」が生みだされつつある。
沖縄で進行しているのは「民族意識をめぐる亀裂の深まり」だ…。
佐藤優の、現在進行形の民族問題への切り込みは、息詰まるようにするどい。

3、当事者性のない人は、よそのナショナリズムに関与するな。
佐藤優は「沖縄独立論」に強く反対している。独立は「圧倒的大多数の沖縄人にとっては幸せではない結果をもたらす」と予感している。外交官として経験してきたソ連や中東での「国家の暴力性に対する認識」が、その立場をとらせるという。
さらに「沖縄に共感する、同情するという人にお勧めするのは、(独立問題には)極力、触らないほうがいいということ。当事者性のない人はよそのナショナリズムに関与しないというのは、守るべき一線ではないか」と指摘する。
わたしなど「沖縄は独立に向かうしかないのでは」と考えがちです。しかし、佐藤優にこういわれれば、軽率なものいいは引っこむしかない。米軍基地負担を沖縄にだけ過重に押しつけるのは間違いだ、ということに限定して関わるという一線を守ります。

それにしても、この守備範囲のひろさ、考察の深さ

本書は、同志社大学東京サテライトキャンパスで行われた全10回の講義(2015年5月〜2016年2月)を編集したものです。
佐藤優は、いつ本を読んだり寝たりしているのだろうか。右から左までの月刊・週刊誌に、フォローしきれないほどの連載をしている。大きな国際問題があればその道の専門家との対談や独自の論考を発表する。大学その他で講義する。あきれるほどのスピードで新書・新刊本を刊行する…。
「また出たのか。ついていけないよ」とため息をつきながら読んでみれば、他の論者からは聞けない考察や示唆がある。怪物レベルです。
ユーモアも忘れない。本書でも、スターリンの猜疑心は「神学校で学んだ」という出自に関わりがある、罪の告白を聞いている神父や牧師は疑い深くならざるをえないからだという一節など、笑わされます。

「新しい民族」の萌芽に注視せよという警告に、沈黙の乾杯。
佐藤優の集中講義 民族問題 (文春新書)
佐藤優『民族問題 佐藤優の集中講義』文春新書、2017年、830円+税。
関連:2017年07月09日、大田昌秀×佐藤優『沖縄は未来をどう生きるか』http://boketen.seesaa.net/article/451642237.html
posted by 呆け天 at 07:20| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする