2015年01月31日

佐野洋子『神も仏もありませぬ』

いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい。

佐野洋子63〜4歳のころのエッセイ。
鏡を見て「ウソ、これ私?」、映画館で顔をみただけでシルバー割引の対象とみなされれば少しムッとする。
無慈悲に老いていく自分と、どうやって折り合いをつければいいのかとジタバタする佐野洋子。
2003年出版だから、もう10年以上前のエッセイだが、名作は色あせないものだなあ。
もはや執筆時の佐野の年齢をはるかにこえた身で読むと、いっそう味わい深い。

北軽井沢の別荘地に移り住んだ佐野洋子は、農家のアライさん夫婦、18キロ離れたお隣のサトウさん夫婦、ジャグアーとベンツとチェロキーを所有する「見栄っぱり命」のソウタなど、個性的な面々との交流のおかげで退屈しないひとり暮らしをしている。
アライさん夫婦の、自然と格闘しながら生きている姿に感動する佐野は、それにくらべれば「自分が人生ズルしてきた」気がする。ノアの洪水になったら神様は「『絵本作家』いらなーい。海におとしなさーい」と云う。「『農家のアライさん夫婦』特別席に座らせなさーい」と云う。「どんな馬鹿な神様も、一番先に確信に満ちて」そう云うと力説する。
わたしもそう思います。ですが、「どんな馬鹿な神様も」って、どうよ。
こういうことばがスラリとでるところが、佐野洋子。本書のタイトル「神も仏もありませぬ」のゆえんでもある。

楽しいおはなしばかりのエッセイだが、とくに印象に残ったこと二つ。
清水出身の佐野は学生時代、あだなが「ジロチョー」だったという。その佐野がたまたま目白駅構内で、ひもでしばった十四・五枚セットのCD『広沢虎造・清水次郎長伝』をみつけ、衝動買いをする。はじめて聞く虎造の美声を、「すみずみまで手入れをして、みがいて、こすって光らせたような声なのだ。どんな低音になってもはっきり日本語が私の耳にはいってくる」と書く。虎造の声をたたえるのに、これほど的確な表現は他で読んだことがない。この話しは、かつてとなり近所にラジオが一台しかなかった時代に、佐野の家に虎造の浪曲を聞きにきていた老人の思い出と重ねて、すばらしい一篇となった。

もうひとつは、ともだちの母親が九十七歳でいったということば。
「洋子さん、私もう充分生きたわ、いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい」。
名言です。これから、このことばを抱いて生きて行こう。

文章はオトコ前、豪快にして繊細。

佐野洋子、1983〜2010年。作家、絵本作家、エッセイスト。武蔵野美術大学デザイン科卒。絵本『100万回生きたねこ』は今も読み継がれる。本書『神も仏もありませぬ』で2004年度小林秀雄賞。文章はオトコ前、豪快にして繊細。「ジロチョー」のあだなで、がにまたで学内を闊歩していたという往時が浮かぶ。くり返し読んであきないエッセイを、たくさん残してくれたことに感謝。

いまは亡き、佐野洋子ネエサンに、献杯。
神も仏もありませぬ -
佐野洋子「神も仏もありませぬ」筑摩書房、2003年、1300円。(いまは、ちくま文庫)
posted by 呆け天 at 10:54| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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