2016年01月30日

沖縄の友人より(4) 1月28日のキャンプ・シュワーブゲート前の様子です。

宜野湾市長選は、残念なことに「辺野古基地建設反対」の志村候補が、現職候補に敗れました。
しかし、選挙の結果いかんを問わず、キャンプ・シュワーブゲート前の闘いは続きます。
沖縄の友人から送られてきた、1月28日(木)の様子です。なるほど、ブロック積み上げ作戦という、新戦術が展開されているんですね。

沖縄情報をお届けします。
今日(1月28日)のキャンプ・シュワーブゲート前の様子です。
昨日の水曜日は、早朝からの大動員で午前中は機動隊の投入がなく、工事車両の進入もありませんでしたが、座り込みが手薄になった午後3時過ぎから機動隊による強制排除が行なわれました。今日も午前中は手出しできませんでしたが、午後1時になって機動隊が投入されました。
@防衛局の職員が「ブロックを積まないで下さい」と叫び続けている。
@防衛局の職員が「ブロックを積まないで下さい」と叫び続けている%u3002.jpg
Aブロックの上と前に座り込む。
Aブロックの上と前に座り込む%u3002.jpg
B午後1時過ぎに機動隊が投入され、座り込みの前に立ちはだかる。
B午後1時過ぎに機動隊が投入され、座り込みの前に立ちはだかる%u3002.jpg
C強制排除が始まった。
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D人を排除した後は、ブロックの移動。排除に要した時間は計25分。
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E機動隊が運んだブロックは装甲車の横にきれいに並べられた。
 E機動隊が運んだブロックは装甲車の横にきれいに並べられた%u3002.jpg
F全員のバケツリレーで再びブロックをゲート前に前よりもさらに高く積み上げる。
F全員のバケツリレーで再びブロックをゲート前に前よりもさらに高く積み上げる%u3002.jpg
G道路の向かい側から見ると、こんな感じ。   
G道路の向かい側から見ると、こんな感じ%u3002.jpg
H今日は、座り込み開始から571日目。闘いは勝つまで続く。
H今日は、座り込み開始から571日目%u3002.jpg
今日の強制排除はこの1回のみ。
通過したのは、ジャリを半分ほど積んだダンプ2台だけ。彼らがやっていることは、座り込みを排除して工事を進めているということをアピールするためのポーズ。工事は進んでいない。

辺野古基地建設反対を闘う沖縄の人たちに、敬意をこめて乾杯。
posted by 三鷹天狗 at 11:08| Comment(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月29日

阿川佐和子『アガワ随筆傑作選ー聞く力文庫2』

すべて笑いを含むエッセイ。穏やかな笑いが心をあたためる。

「謎の赤ん坊時代」と題する一編にはじまり、「冥土インタビュー」で終わる全五十四編が、すべて笑いを含むエッセイになっている。
きっちりとオチをつけて笑わせるもの、文中のエピソードでウフフと笑わせるもの、そういうこともあるねという苦笑の場合もある。
幼少期、青春期、悩める社会人初期、仕事全開の時期…長短さまざまなエッセイを並べて、それが自叙伝になっているというしゃれた構成。初出誌もさまざま。
しかし一貫しているのは、すべて笑いを含むエッセイであること。
中学のころお世話になった恩師が亡くなったという知らせを聞き、その死を悼む一編でさえ、回想の核に味わいのある笑いを含んでいる。
大笑いや馬鹿笑いはありません。おだやかで、上質なユーモア。しかしお上品を気どったりはまるでしない。人によっては「ぬるい」と感じるかもしれない、このほどの良い笑いが、心をあたためてくれて、私は好きです。

オチのみごとな一編「伯母っ子」。
広島に住む伯母が大好きで、西へ行く用事があれば顔を出す。子どものころからお世話になり、いつまでたっても甘えたくなる伯母だ。モノ忘れがひどくなった伯母を案じて「もう一人暮らしはおしまいにしたほうがいいんじゃないの」とえらそうに言ってみたりもする。
「東京のアパートに戻ると、電話が鳴った。伯母の声である。
『もしもし、あんた、スカーフ忘れてったよ』」

意外な一編「命名者の気持ち」。
なんと東海道新幹線「のぞみ」の命名者は、阿川佐和子なのだという。「ほんとかよッ」とつっこみたくなるが、本当らしい。
なぜかJR東海から命名委員会に入ってくれと委嘱される。鉄道好きで有名な父・阿川弘之への依頼の間違いではないかと念をおしたが、「今回は阿川佐和子さんに」とのこと。
一般公募された名前の中から、委員で選んでほしいという。
「エース。太陽。つばめ。きぼう。きらら。…」など、10数種類の候補を事前に伝えられたが、途方にくれるばかり。委員会の前日、父に電話し経緯を説明して意見を聞いたら、「国鉄の時代から、日本の列車の名前はすべて大和言葉でつけられている。『あさかぜ』『はと』『はやぶさ』(中略)…願わくば新幹線も大和言葉がふさわしい」とアドバイスをうける。
当日、命名委員会の会議の終わり際に、父の意見を紹介したうえで、「この人気の『きぼう』という名前を大和言葉に言い換えると『のぞみ』ってことになりますね」と阿川が発言した。
数日後阿川委員に「のぞみ」に決まりましたと連絡があるが、阿川は「穴にでも入りたい心境」になり、「誰にも秘密にしておくぞ」と決意する。「幼稚園の名前みたい」といった悪評がたって笑われそうというわけです。
しかし10数年の時を経て、「のぞみ」は世間に定着した。さすが、阿川親子です。

父・阿川弘之の見送り方もみごとです。

W部構成の大V部は「親ゆび小ゆび」と題して、父・阿川弘之にまつわる11編が収録されています。横暴・頑固・偏屈な作家の娘として生きるのが、どんなにたいへんだったかと笑いをとるのは、阿川の定番ネタです。
私は阿川弘之の本をほとんど読んでいないのですが、これだけ書き放題に書かせているだけでも、娘への愛情の深さは感じとれます。
2015年8月3日に94歳で大往生した父について、新聞に発表された阿川のお知らせの文章の末尾が「以上、簡略?(長いかしら?)ながら、一言、ご報告にて失礼致します。」と結ばれているのはすごいですね。
お別れの会では「軍艦マーチ」を流して見送ったとか。
『週刊朝日』のインタビューでは「父が昔から『書かず、読まず、とらず』と言っていた朝日新聞系の雑誌に遺影とともに載せて頂きありがたいやら申し訳ないやら。でも『あれだけ言っておいたのになぜわからんか!』と化けて出そう(笑)。」と結ぶ。
たいへんな才人です。

阿川佐和子の尽きせぬユーモアに、乾杯。
天寿を全うされた父・阿川弘之に、献杯。
「聞く力」文庫2 アガワ随筆傑作選 (文春文庫) -
阿川佐和子『アガワ随筆傑作選ー聞く力文庫2』文春文庫、2015年、580円+税。
関連:日阿川佐和子『サワコの朝』2015年10月03日http://boketen.seesaa.net/article/427141384.html
阿川佐和子『あんな作家こんな作家どんな作家』2014年10月02日http://boketen.seesaa.net/article/406404578.html
posted by 三鷹天狗 at 08:29| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月27日

山本義隆『私の1960年代』

45年の時を経て知る、山本義隆の考えていたこと。今も続く問い。

元東大全共闘代表にして全国全共闘議長・山本義隆の回想録です。
山本自身は、自分を東大闘争のリーダーだとか、全国学生運動のリーダーだとか、露ほども思っていないことがよく分かります。
一学徒として、一物理学者として、考え抜いた末に行動し、自分の行動には最後まで責任をもつ。
東大闘争とはなんだったのかが、当時生まれてさえいなかった人にも分かるように、丁寧に、資料の裏付けをもって語られます。
それを担った、真摯で、寡黙な(多分)山本義隆の人間像が、くっきりと浮かび上がってくる、みごとな回想録です。

同時代を生きてきたことで「分かったようなつもり」になっていた東大闘争について、あらためて、なるほどそういうことかと思わせられることがいくつもありました。

1、「自己否定」ということばがでてきた真の意味
1970年前後の学生運動・学園紛争の中で、「自己否定」ということばは一つのキーワードでした。
気分としては「学生」という身分に安住している自分を問い直す、というくらいの意味で使っていたと思います。私はあまり言葉として好きではなく、うっすらと甘さが漂う言葉と感じていました。
本書で山本は、東大闘争の中から発せられた言葉が「(科学)研究者としての自己否定」であることを、丁寧に説明しています。
アジア太平洋戦争での敗北の原因を、科学に求める風潮が戦後日本を覆っていた。
「われらは敵の科学に敗れた。この事実は広島に投下された一個の原子爆弾によって證明される。」(1945年8月20日朝日新聞)
この風潮に国全体が染まり、科学は万能であり、立場やイデオロギーを超えて無条件に善きものとされた。
山本たち若い研究者たちは「本当か?」と迫っていく。核兵器は正義か?米軍から費用をもらう物理学研究ってなんだ?
これらの問いの果てに、「私たちは研究を放棄する権利を有している」という、「研究モラトリアム」の概念を初めて主張したのだという。
モラトリアムというのは、義務履行の猶予とか、危険な活動の一時停止とかという意味でしょうから、危険な、反人類的な研究にはストップをかけたりサボタージュしたりするのも研究者の責務だという意味でしょうね。
そうか、これが「自己否定」の本当の意味だったのか。
当時、私には、この山本たちの「研究者としての自己否定」の真意がまるで理解できていませんでした。

そして山本は、この時の問いをまっすぐに維持したまま、福島第1原発事故、原発再稼働などの現状に批判を加えています。現政権の暴走が、岸信介の「核武装の夢」の延長にあること、原子力村がその走狗であることを、鋭く指弾しています。

2、東大ベトナム反戦会議の役割りの大きさ
1960年代の後半、ベトナム反戦は世界の若者の共通の課題だった。
1966年9月の東大ベトナム反戦会議の創立宣言は、次のようにいう。
「ベトナムにおける米軍の軍事行動の停止、米軍の撤退と民族自決の貫徹、日本政府の侵略協力反対」「(この)三つのスローガンを共通の立場として、これ以外の原則を他者におしつけない」「連絡センターをおくが、活動は個人の創意で行う。」
この組織原理は、のちの全共闘運動のスタイルの先駆ですね。
いや、さらに遠く、たとえばSEALsの闘い方にもつながっています。
連絡センタ―でゆるやかにつながり、活動は個人の創意で行う。これは、それまでの日本の左翼政党や労組の闘い方とはとても異質でした。
山本が哀惜をこめて追悼する所美都子の「反戦の意志を持った個人の集まりが横に繋がっていく」という組織論です。
山本は「東大闘争の全過程をとおして、所さんの思想と精神は私たちを導いた」と回想しています。
砂川、王子野戦病院、10・8羽田、新宿国際反戦デ―(新宿騒乱)…山本の回想で語られるそれらの闘いの一つひとつが、東大・日大を頂点とする学園紛争と相互作用しながら燃え上がっていました。

山本は、1968年7月1日のベトナム反戦会議で行われた「本部封鎖・(安田)講堂解放」をめぐる議論について、「いまでもその議論に加わったほぼ全員の名前とそのときのそれぞれの主張を覚えています」と記しています。すごいことです。頭の構造が違うといえばそれまでですが、その迫真の議論がもつ歴史的意義ゆえに、山本の記憶が色あせないということでしょう。
東大闘争の推進力は東大ベトナム反戦会議だったという事実を、新左翼諸党派は口は達者だが役立たずだったという事実を(山本はこのことはむき出しにではなくやわらかく描いていますが)、強烈に認識させられました。

3、日大闘争へのリスペクト
終始冷静であり、歴史を記述するように書く、当時まだ生まれていなかった人にも分かるように書くことに徹している山本の筆致が、乱れるというか、肉声がダダ漏れる場面があります。
日大闘争に触れた場面です。
「本当の意味の『全共闘』を作りあげたのは日大です。これは文句なしにそうです。」
「日大闘争は、学生大衆の正義感と潜在能力を最大限に発揮せしめた闘争であり、その意味で掛け値なしに戦後最大の学生運動で最高の学園闘争だったと思います。ほんと、すごいです。いまでも涙がでてきます。」
「東大全共闘は、古風な言葉遣いではありますが、、日大全共闘にものすごく恩義があります。借りを作っています。返しようもないのですが。」
日大闘争がなければ、東大闘争もその意義がかくも歴史的なものになることはなかった。
戦友への、むかし命を賭して一緒に闘った兄弟への、痛切なリスペクトに読んでいて胸が熱くなりました。

4、「68・69を記録する会」の活動、偉大です。
1987年に山本は、畏友・鈴木優一や日大全共闘の人たちと「68・69を記録する会」をたちあげ、7年間の歳月をかけて「東大闘争資料集」を完成させる。
1967年の医学部闘争から1969年2月までの闘争の過程で作られたビラ、パンフレット、討論資料、当局文書など、5105点、枚数にして1万数千枚を、ゼロックスコピー全28巻とマイクロフィルム3本に収録し、1994年に国会図書館と大原社会問題研究所に寄贈した。
「データベースへの打ち込みは私一人でやり、八七年以来数年間は、ほとんどこの仕事にかかりきりでした。」
「仕事」とありますが、もちろん無償の、いつ果てるともしれないこの作業を、山本義隆はなしとげた。
偉大としかいいようがありません。
このくだりを読んでいて、昔、内田樹がブログ「内田樹の研究室」2006年4月27日に書いた文章を思い出しました。http://blog.tatsuru.com/archives/001693.php
長文すぎますが引用します。
「誰もがその思想や運動に見向きもしなくなったとき、こつこつと『後片付け』をする人間がどれだけていねいにその仕事を果たすかで、その価値は決まる。
 東大全共闘は政治運動としてある種の完結性をもつことができたと私は思っているが、それは山本義隆という個人が『弔い』仕事を引き受けたからだ。
 痩せて疲れ果てた山本義隆が1974年の冬、東大全共闘最後の立て看を片付けているとき、彼の傍らにはもう一人の同志も残っていなかった。 冬の夕方、10畳敷きほどある巨大な立て看を銀杏並木の下ずるずるとひきずってゆく山本義隆の手助けをしようとする東大生は一人もいなかった。 目を向ける人さえいなかった。
 法文一号館の階段に腰を下ろしていた私の目にそれは死に絶えた一族の遺骸を収めた『巨大な棺』を一人で引きずっている老人のように見えた。
 東大全共闘はひとりの山本義隆を得たことで『棺を蓋われた』と私は思っている。」
やや誌的にすぎる賛辞です。「お前が手伝え!」と22歳の内田をどやしたくもなります。
しかし、ここには真実が書かれています。
 「東大全共闘はひとりの山本義隆を得たことで『棺を蓋われた』」
本書全体が、この内田樹の言葉を証明しています。

20代の山本の文章、なんと初々しい

本書には、ふんだんに当時のアジびらや資料が掲載されていてそれを読むのも楽しい。
しかし、なんといっても圧巻は、巻末に補注として収録された、すべて山本義隆自身が書いたり話したりした14篇の資料です。
山本が22歳の時に書いた文章の一節なんか、こうです。
「目ざめたるものの義務は何か。一切のイデオロギー、一切の価値の否定である。
自己の理性以外は一切を否定せよ。これをニヒルという。理性の示すところに依り、マキシムの行動を追及する。これをアナーキーと言う。
思考に於てはニヒルに!行動に於てはアナーキーに!」(『東京大学新聞』1963年2月20日号。「時計台前座り込み闘争」)
青い、初々しい、こわいもの知らずの山本の文章が、光りかがやいています。
補注には、病気や老いで亡くなったかつての仲間たち(鈴木優一、今井澄等)への弔辞も掲載されていて、身につまされます。

私は1969年1月18〜19日の東大安田講堂に、「外人部隊・助っ人部隊」のひとりとして籠もり、闘いました。私の人生の中で、もっとも凝縮された時間がそこにあります。
いまこうして山本義隆の著書を読むと、鮮やかにあの48時間の攻防がよみがえります。そうか、いつかあの48時間について書く必要があるか、などという想いが湧いてきたりもしました。

東大闘争の「棺を蓋った」山本義隆に、乾杯。心からの感謝をこめて。
私の1960年代 -
山本義隆『私の1960年代』(金曜日、2015年、2100円+税)
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posted by 三鷹天狗 at 07:17| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする