2017年09月19日

亡き友を偲んで、秋田に集う

8月に亡くなった旧友を悼んで、「偲ぶ会」が秋田市で開かれ、参加した。参集したのは全員60代後半〜70代の老人10数名。故人との思い出話しを一人ひとりが語り、酒好きだった故人がその場にいるような酒席となった。
亡くなったKさんは、高校時代の先輩であり、「番長グループ」の一人として知られた、いまでいうツッパリだった。ただ、50数年前の秋田県南部の不良というのは、大坂の『岸和田少年愚連隊』(中場利一)に出てくるような不良ではまったくなく、他校の腕っぷし自慢とケンカしたり、隠れて酒を飲んだ、タバコを吸ったという程度の、牧歌的なものだった。
そのKさんが、やや遅れて学生運動に参加し、第2次羽田闘争(1967年11月12日)であわや失明というケガをおったあたりから、東北地方にも「新左翼」や「全共闘」の影響が広がっていった…。
当日は秋田城跡・千秋公園でおおがかりな花火大会が行われており、宴席となった居酒屋「からす森」2階の窓からもときおり花火が見えるという絶好のロケーション。夕方5時に始まった会が、おひらきとなったのが10時。酒豪だったKさんを偲ぶのにふさわしい、酒また酒の会でした。
Kさん、おつかれさまでした。残された者たちは、もう少し生きてからそちらに行きます。

次の日は、千秋公園、美術館、民俗芸能伝承館などを歩きまわって、久々の秋田にひたりました。
千秋公園。城跡にしてはゆるやかな丘です。いかにも太平の江戸時代の城にふさわしい。春はつつじ、秋は紅葉が美しい公園ですが、この時期は緑の濃さ・深さが印象に残ります。お濠は、蓮で埋めつくされています。
千秋公園6.jpg 千秋公園.jpg 千秋3.jpg
秋田県立美術館。2013年に新館がオープン。旧館同様、藤田嗣治の大作『秋田の行事』が圧倒的なメインです。写真撮影禁止なのでWebサイトにある写真を借りますが、いつ見てもみごとな作品です。2階ラウンジからの、美術館の水庭と千秋公園の堀を一体化させた景観が秀逸です。
秋田の行事.jpg 県立美術館.jpg
民俗芸能伝承館・ねぶり流し館では、ちょうど竿燈の実演・体験中でした。2階に展示の秋田萬歳の人形が、なぜか志の輔によく似ている。
民俗伝統.jpg 竿燈.jpg 秋田萬歳.jpg
赤レンガ郷土館は1912年(明治45年)建築の旧秋田銀行本店を活用した施設で、国の重要文化財指定を受けています。秋田の風景を版画にした勝平得之(かつひらとくし)のすばらしい作品が常設展示されている。企画展で、秋田市出身のマンガ家・倉田よしみの作品展が行われており『味いちもんめ』の原画やみごとなイラスト多数が展示されています。
赤レンガ2.jpg 勝平得.jpg 倉田よしみ.jpg
東海林太郎音楽館を初めて見学。私設で、無料で、こういう記念館を運営しているのはたいしたものです。同じ場所に「大鵬」ギャラリーもある。ふたつを支えているのは秋田では有名な老舗の菓子舗「榮太楼」です。創業1883年(明治16年)ですから、134年の歴史がある。「榮太楼」は戦後、系列の旅館「榮太楼」を営んだ(1947年〜2006年)。秋田巡業のとき宿泊した横綱大鵬が、旅館の長女・小国芳子さんを見染めて結婚したエピソードは、大鵬の伝記のハイライトのひとつになっています。
旧友、Kさんの冥福を祈って、献杯。
ふるさと秋田の、弥栄を祈って、乾杯。
2015年01月28日、中場利一『この子オレの子!』http://boketen.seesaa.net/article/413090688.html
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2017年09月15日

NHKスペシャル「沖縄と核」

1300発の核兵器が配備されていた60年代の沖縄

9月10日(日)夜9時00〜 NHKスペシャル「沖縄と核」には衝撃を受けました。
1958年以降、沖縄には中ソを標的とする核兵器が配備されていた。その数は、最大時(1967年)1300発に達した、というのです。
NHKの番組案内の一部を、そのまま引用します。
「45年前の本土復帰までアジアにおけるアメリカ軍の“核拠点”とされてきた沖縄。これまで、その詳細は厚いベールに包まれてきた。しかし、おととし、アメリカ国防総省は『沖縄に核兵器を配備していた事実』を初めて公式に認め、機密を解除。これを受け、いま「沖縄と核」に関する極秘文書の開示が相次ぎ、元兵士たちもようやく重い口を開き始めた。そこから浮かび上がってきたのは、“核の島・沖縄”の衝撃的な実態だ。1300発もの核兵器が置かれ、冷戦下、東西陣営の緊張が高まるたびに、最前線として危機的な状況に置かれていたこと、さらには、「核」の存在こそが、沖縄への米軍基地集中をもたらす要因となっていたという新事実・・・。」

まず「おととし」まで、公式には「核兵器配備」を認めていなかったことに驚きます。
支配者は、不都合な事実についてはどんなことでも秘密にする。ソ連と中国を標的とする核兵器1300発が配備されている嘉手納基地は、ソ連と中国からの核攻撃の最初の標的になる。しかし、そのことを、米軍基地の隣に暮らしている沖縄の住民はまったく知らない。元琉球政府・知花成昇も「核兵器の話は聞いたことがない」と証言する。
最大時の1967年といえば、ベトナム戦争がもっとも激化していた時期です。私なども「ベトナム戦争反対」を叫び、立川基地の前で「この米軍機をベトナムに飛ばすな」とデモをしたこともあります。沖縄が、ベトナム戦争の米軍出撃基地であることは世界周知のことでした。しかし、嘉手納基地に1300発の核兵器が保有されていたなどということは、チラリとも聞いたことがない。
いまは空になった嘉手納の核兵器発射施設を、キューバ危機(1962年)当時任務に当たっていた元兵士が訪れ、いつでも中国に向けて発射できる態勢になっていたことを証言するくだりは、異様な迫力です。
キューバ危機からベトナム戦争まで、沖縄は「核の島」として米ソ冷戦の最前線にたたされていた。
その構図は、日米戦争において、「本土決戦」の最前線として沖縄戦がたたかわれ、20万人を超える犠牲者をだしたこととなんら変わらない。

1953年伊江島での米軍による土地強制収容、1959年ナイキ・ハーキュリーズ(迎撃用核ミサイル)訓練でおきた墜落事故、1960年伊江島の模擬核爆弾投下訓練で住民の石川清鑑さんが即死した事故、1962年キューバ危機当時の一触即発の緊張(登場した米軍兵士の「世界ではなく、沖縄が終わると思っていた」という発言)、1969年佐藤・ニクソンの沖縄返還確約と「核密約」…。
次々と明らかにされる事実を見ながら思うのは、ただただ「理不尽」ということです。
そしていままた、沖縄県民の意志をふみにじって強行されようとしている辺野古新基地建設。尖閣諸島をめぐる中国との緊張を理由とする、先島諸島への自衛隊配備。
沖縄が、この理不尽な歴史から解き放たれる日はくるのだろうか。

辺野古新基地をめぐる攻防が、歴史の分岐点になる

翁長県知事を先頭とする「オール沖縄」が、米軍基地のゲート前で、埋め立て工事の大浦湾で、国を相手の法廷で、「これ以上の基地負担はゴメンだ」と叫んでいる。沖縄が強いられてきた異様な現実を、終わらせるための攻防が繰り広げられている。
NHKの取材に対して米国防総省は「(いま現在の)沖縄における核兵器の有無は回答しない」と答えた。だからたぶん、なんらかの形で沖縄に核兵器はあるのだろう。
しかし、施政権返還によって、少なくとも1300発の核兵器は沖縄から撤去された。それは沖縄人民が祖国復帰運動でかちとった、大きな成果だ。
辺野古をめぐる攻防は、歴史の次の分岐点だ。平和の島・沖縄、万国津梁=世界の架け橋・沖縄へと進む、分岐点だ。

衝撃の事実をスク―プしたNHKスペシャルのスタッフに、乾杯。
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2017年09月13日

椎名誠『家族のあしあと』

いいなあ椎名少年。埋め立て工事がすすむ幕張海岸で輝いている。

椎名誠が、自分の記憶がはじまる4〜5歳の幼児期から、小学校6年生までをゆっくりと描いた「明るい私小説」少年編です(つづきは『すばる』に連載予定)。
椎名ワールドに関心がない人は手にしないし、椎名だいすき人間が読むとしみじみと心に沁みる。「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」の、双葉の時期の椎名少年の話しです。どんなエピソードも、すでに(本で読んで)知ったつもりになっている椎名誠を逆投影して読む。なるほど、幼児の椎名はそうふるまったか、少年の椎名ならいかにもそう言っただろうな、などと訳知り顔に読む。初めて聞く話ばかりなのに、なぜか懐かしさの感情さえわいてくる。
ノーベル賞を受賞したり、オリンピックで金メダルをとったりした人の、小学校時代の恩師がでてきて語るエピソードが、いかにも今日そうなることを予感させるような子どもだった、というオハナシになることと同じです。

小学校5年生の2月という中途半端な時期に転校してきた、伊藤夏実という女の子の名前のような小柄な男の子と、通学路の方向が同じなのでともだちになる。都会育ちで裕福らしい伊藤君はいじめの対象になり、ある日15人くらいでとりかこまれリンチされかかっているところに、椎名少年はかけつける。首謀者をつきとばし、倒れている伊藤君を助けおこしながら「さあこい、一人ずつでこい」と「無念ながら少しフルエルような声」で叫ぶ。
「(声がフルエたのは)無理もないと思う。このときがぼくの人生初の喧嘩だったのだ。」
人生初のケンカが、自分の身を守るためではなく、小柄な友人を守りながら15人を相手にきったタンカだったというところに、後のケンカにあけくれる高校時代のすがた、沢野・木村・目黒などとの生涯にわたる友人づきあいの原型がくっきりと浮かんできます。かっこいいなあ、椎名少年。

異母兄弟たくさんの複雑な家庭のなかで誰よりも好きな姉・夏子が、先妻の子どもなのか自分たちと同じ母親の子なのか、母にも、姉本人にも聞けない。そのグジグジ感は、実は椎名の書く文章に底流としてながれているものだ。体育会系で単刀直入という、外貌からの印象とはことなり、まるで太宰治のグジグジ内面吐きだし系のような要素が、椎名にはある。
ただし、それは「いいや、どうだって」という、小学5年生頃から胸のなかに住みついたらしい言葉との振幅のなかで書き表わされる。ま、その要素(内面グジグジ)がなければ、自分のことをこれほど長期にわたって書き続け、かつ読まれ続けることはできません。

突き抜けるような青い空のもと、埋め立て工事が始まっている幕張の海岸で遊びまわる7〜8人の少年の集団。工事現場のトロッコに大人の目を盗んで乗る、アカ(しんちゅう)がカネになるとホームレスのおっさんに教わって目の色をかえる、職員室に呼び出されたら泣いて白状してしまうなかまに「泣くなよな」と胸のなかでつぶやく。学芸会で「マヌケな大男」の役をふられて観客の笑いをとる快感を知る。いかにもそういうことがあっただろうなあ、というエピソードが、ゆったりと語られます。

家族が笑って食卓を囲む情景は、ほんのひととき

小学5年の時には、父が亡くなっています。あるかなきかの父との交情に心打たれるか。昭一やカッチンなど悪ガキ遊び仲間との冒険譚にひきつけられるか。読み方はそれぞれです。
読む当方も70歳となった今となっては、家族が笑い合って食卓を囲む情景など、すぐに消えてしまうほんのひとときの幸せなんだという描写に、しみじみと納得感があります。

「さあこい、一人ずつでこい」と叫んで身構える椎名少年に、乾杯。
家族のあしあと -
椎名誠『家族のあしあと』集英社、2017年、1300円+税。
関連:2017年05月14日、「本の雑誌厄よけ展」http://boketen.seesaa.net/article/449810677.html
posted by 三鷹天狗 at 09:45| Comment(0) | 読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする