2018年02月19日

深大寺・弁天池のかいぼり

100人のボランティアが、泥にまみれて奮闘。清い湧き水の池の復活をめざす。

2月17日、1300年の歴史をもつ深大寺の弁天池で、はじめてのかいぼり作業が100人以上のボランティアのみなさんの手でおこなわれました。
弁天池は深大寺山門前にあり、幅20b、長さ50b、深さ1.5b、敷地内でもっとも広い池です。10日ほど前から消防用ホースで水を抜いたり、魚や貝の確保が行われており、当日には地底の泥がむきだしになっています。好天にめぐまれたとはいえ寒さ厳しい中、ヒザまで泥に埋まりながら、スコップで土嚢用の袋に池底のヘドロを入れていく。ほんとうにお疲れさまです。用意した土嚢袋は1600枚。とんでもないほどの量の泥が掻い出されました。
素人考えでは、強力なバキュームカーで吸い上げればいいのでは、などと横着な考えがうかびますが、それは料簡違いというもの。2月8日の記事によれば「江戸時代に寺が火災に遭った際に貴重品を池に投げ入れて守った」という言い伝えがあるそうですから、雑な作業は許されません。
加えて、檀家や、門前で商売をしているみなさん、深大寺を愛してやまない地域の多くの人々が、泥にまみれ汗をながしてこそ意味があるということでしょう。高校生らしき若い人たちがたくさんいることも、心強いかぎりでした。
一見物人として、作業をするするみなさんに感謝し、ともに古刹の弥栄(いやさか)を願いました。
かいぼり6.jpg かいぼり2.jpg
作業翌日には、池には満々と水が湛えられました。国分寺崖線からの、清涼な湧き水です。かつては、スイレンが咲き、緑の水草が見える池だったそうです。その姿がよみがえる日が楽しみです。
深大寺はかつて2度も火災焼失、現在の本堂は1918年(大正7年)に再建され、今年は建立100年にあたります。かくも多くのみなさんに愛されている寺が、ご近所にあることが幸運です。

深大寺・弁天池かいぼりのボランティアのみなさんに、乾杯。
深大寺100年20180130.jpg かいぼり3.jpg
関連:鬼太郎茶屋便りhttp://kitaro.chaya.ciao.jp/?eid=947966
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2018年02月17日

調布・樟まつり文芸講演会 高橋順子「著書を語る『夫・車谷長吉』」

たづくり12F大会議室に、詩人の朗読が響きわたる

2月14日(水)14:00〜、調布文化会館たづくりで文化講演会があり、『夫・車谷長吉』の著者である高橋順子さんが講演しました。樟(くすのき)まつりは調布市立図書館が40年以上も続けている文化事業です。会場の12F会議室、200人定員がほぼ満席の盛況。高橋さんが冒頭「こんなにたくさんの方にお集まりいただいて」とおっしゃっていましたが、確かに車谷のようなマイナーな作風を好むファンがこんなにたくさんいるのか、と私も内心おどろきました。樟まつりを企画実行されてきたみなさんの努力のたまものです。

高橋さんは、柔らかくつつみこむような声で、ゆっくりと話されます。
車谷の臨終の場面を書くのはつらくて、手に数珠を巻いて書いた。
車谷愛用のワープロの電源は今も抜いていない。車谷にとって、ワープロは命の綱だったから。
筆禍事件で月に一度裁判所に通っていた時期もあった。わたしもいつも付き添った。
恨みをかっていることを承知している車谷は、講演会に行くときは防弾チョッキを着ていた。
車谷は小説でもエッセイでも、事実をねじ曲げて書いた。「ヨメはんはミス東大だった」と書かれた時はさすがにいたたまれず繰り返し撤回するように迫った。やっと「あれは事実無根」とエッセイに書いてくれて助かった。
たんたんと語る中にたくまぬユーモアがあり、会場には何度も笑いが起きました。

やがて、「みなさんに車谷の文体に触れていただきたいので、少し朗読をしてみます。車谷は、一行読めばその作家が分かると言っていました」と前置きして、『飆風(ひょうふう)』の部分朗読がはじまった。
「飆風」はつむじ風のこと。強迫神経症に冒され、日がな一日手を洗い続け「あなたを殺すか私が自殺するかだ」と言い始めた車谷と、詩人・高橋順子の凄絶な日々。車谷の文章に、高橋の実名入りの詩が10編ほども割り込んでくる実験的な作品です(初出『群像』2004年2月号)。
朗読がはじまると、それまでの、柔らかく低くおだやかな語りが、一変した。
「昔、私が小学校六年生の春、宏之叔父(母の次弟)が二十一歳で自殺した。その直前、叔父はコップの水をその横の空きコップに移し替え、また元に戻し、さらにまた戻すということを、一日数百回も執拗に繰り返していた。目が爛々と輝いていた。…」
狂った叔父の異様な描写に、会場は静まりかえります。地の文章に続けて高橋の詩。
「ふるえながら水を   
                     高橋順子
男が水を流している ふるえながら 深夜
流している
水を流しているのは 男の意志である
意志ではあるが 水に切れ目を付けることができないので
水の意志にしたがわされているともいえる
(中略)
『動かないで!』
女が動くと すべてまた 一からやり直さなければならない …」
この「動かないで!」の音量は、大きく、鋭く、講堂全体を圧して、聴衆を呑み込みました。
さすが詩人です。朗読会の機会などもあるのでしょう。場をコントロールする迫力が圧巻です。
朗読が終わり、また静かでおだやかな語りにもどります。
「車谷はこの作品を、自分で編んだ『車谷長吉全集(全三巻)』に、入れませんでした。私の詩が入っているからかも知れません。車谷から、遺稿を編む第四巻の編集は私にまかせると言われているので、私の詩は少し小さな活字にする形で、入れようと思います。」
じつに結構な講演と朗読でした。長く強い拍手が聴衆の感動をあらわしていました。

「ちょうきち」ではなく「ちょうきつ」だと、初めて知りました

車谷長吉の名を、これまでなんの疑問もなく「くるまたにちょうきち」と読んできました。なんと「ちょうきち」ではなく「ちょうきつ」であると今回の講演で知りました。
車谷は唐の詩人で鬼才を讃えられた李賀を敬愛していた。それで李賀の字(あざな)の長吉(ちょうきつ)を自分の筆名としたのだという。それでも、母親からは「ちょうきちなんて、丁稚みたいな名前だ」といわれていた…。
なるほどなあ。それにしてもあれほど難しい人間だったのだから、自分の名前を「ちょうきち」と呼ばれるたびにさぞかしストレスをためただろうとタメ息がでます。みずからハナシをややこしくするようにできてる人だったんでしょうね。

鬼才・車谷長吉をつつみこみ、看取った詩人の、すばらしい講演と朗読に、乾杯。
高橋順子20180214.jpg 高橋順子.jpg 飆風 (文春文庫) -
車谷長吉『飆風(ひょうふう)』講談社、2005年、1500円+税。(現在、文春文庫)。
関連:2018年01月11日、高橋順子『夫・車谷長吉』http://boketen.seesaa.net/article/456129214.html
2013年12月31日、車谷長吉『人生の救い』http://boketen.seesaa.net/article/383998582.html
posted by 呆け天 at 10:01| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月15日

依田紀基『どん底名人』

あの世界最強だった依田が、いま人生のどん底にいる?

依田紀基といえば、われわれ年配囲碁ファンにとっては、いっとき世界でいちばん強かった棋士です。
名人位4期、碁聖6期、NHK杯優勝5回など、国内棋戦でも一流の成績を残していますが、なんといっても国際棋戦での実績がすばらしい。
李昌鎬との五番勝負で勝利(1991年)、日中スーパー囲碁で中国主将聶衛平を破る(1994年)、三星火災杯優勝(1996年)、農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦で日本チームを率いて優勝(2006年)。
いま、井山が世界戦の決勝に進出したことがニュースになるほど中国・韓国におくれをとっている日本ですが、依田の全盛期には正面からわたりあって遜色なかったという記憶があります。
180センチ90キロの堂々たる体躯、ふてぶてしい顏、ぶっきらぼうな話し方。バクチ好きで、バカラ地獄にはまっているらしいという芳しくないうわさなど、盤外でも豪傑ぶりが伝えられていました。しかしまあ、囲碁の世界には藤沢秀行という、酒・バクチ・女の三拍子そろった破天荒な棋士がいたので、それに比べれば騒ぐほどのことでもない。
まして1998年に、才媛のほまれ高い原幸子(女流棋士)と結婚した。わたしは当時参加していた囲碁サークルであるプロ棋士(故人)の指導をうけており、酒席で彼が「依田の面倒をみられるのは原しかいない。これで依田も安心」と話しておられたことを思い出します。
その後、時代はうつり「平成四天王」(張栩、山下敬吾、高尾紳路、羽根直樹)の後塵を拝するようになり、井山一強の今となっては過去の人…というのは勝負の世界としては自然の流れです。

その依田が「私は現在、ある意味、バカラ地獄以上の人生のどん底にいる」と赤裸々に告白しています。
結婚後もおさまらなかったバクチと浪費癖のせいで、持ち家を失い、家族とは別居している。さしもの原も、依田をコントロールすることは無理だったか。命に代えてもというほど愛する3人の息子にはもう2年間も会えていないという。
「子供に会いたい。私の一番の望みはこのことである。」
後悔と血涙。
あの依田紀基が、孤独のなかでのたうちまわっている。

いろいろ事情はあるだろうが、原さん、せめて月一回くらいは子供たちと会わせてあげることはできないですかと、一ファンとしては言いたくなります。
原さんが2年間子供に会わせないというのは、カネだけではない問題がからんでいるのか。それとも、心を鬼にして、依田の再起、50代でのタイトル奪取といった結果をだせと求めているのか…。いろいろと臆測が湧きます。

それにしても際立った個性です。
囲碁でプロになれるような人間はアタマが良いに決まっていると世間は思っているが、その常識はまちがっている。私は学校の勉強ができない劣等生だった。何度そう言っても人は謙遜だという。なら証拠をみせますと、中学校3年生のときの「オール1」の通知表を、写真付きで公開しています。伝記なんかでオール5の通知表を見せられたことはありますが、オール1の通知表公開というのは、本邦初ではないか。
プロになるため上京し、安藤武夫門下として住み込み修業をはじめた依田には、中学校で過す時間が、無駄で、邪魔で、苦痛でしかなかった。囲碁の勉強なら一日10時間やっても飽きないが、学校の勉強にはまったく意味がないと考えている。暴力教師に目をつけられ体罰を受けたと、50歳をこえた今、筆誅を加えている。この教師が読んだらふるえあがるほどの、強く深い怒りです。
依田は13歳中学2年生の時にプロ試験を受け、興銀を退職してプロ試験に挑戦した石倉昇に負けて、入段を逃した。「東大生に、碁でも負けるのか」と涙があふれたと述懐しています。東大卒とオール1の神童が交差・激突した、印象的な場面です。

尊敬する藤沢秀行とのエピソードがたくさん綴られている。ある日、秀行がまだ23歳の依田に、俺から500万円で碁盤を買えという。そんな金ないというと「じゃ、300万でいいや」。金をもって行ったら30万を秀行がぬき、残りは奥さんに渡して、自分は「じゃあな」と競輪場に去っていった。
そんなことしてみせたら、依田が道を誤るのも無理はないよ、といいたくなります。

依田がもういちど輝く姿がみたい

それしても依田紀基、もういちど輝いてほしい。
囲碁指南の名著『依田ノート』(2003年)は、いまも私の愛読書です。その一着を打つときに、なにが大事と考えるべきかを、懇切丁寧、アマチュアにも分かる言葉で記した。わたしにとっては、趙治勲『地と模様を超えるもの』に匹敵する本です。もちろん、依田のいう通りにはまるで打てませんが。
依田は本書『どん底名人』を息子たちへの「遺書」だと言っています。つまり、おれはもう死んでいると言っているわけです。なら、なおさらです。囲碁に命をかけて死んだ男の、底知れぬパワーをもういちど見せてほしい。5〜60代にもタイトル戦を闘っていた師秀行の、衣鉢を継いでほしい。

依田が、愛する息子たちと再会できる日を祈って、乾杯。
どん底名人 -  依田ノート -  
依田紀基『どん底名人』角川書店、2017年、1500円+税。
依田紀基『依田ノート』講談社、2003年、2000円+税。
posted by 呆け天 at 08:55| Comment(0) | 囲碁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする